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――ホースを垂らすと、蛇と間違えてカラスは来ない。
ラジオで、そんなことを言っていたと家人が言う。埃をかぶった古い水撒きホースを早速物置から取り出して、とぐろを巻いているかのような工夫をして、ベランダから乙鳥の巣の近くに垂らした。蛇を喰う烏の童話を読んだことがあるので、真偽のほどはあやしいが、一計を案じることができてよかった。 雨の日は湯女と花札蝮捕り 副田萍泉 引き返すほかなし蝮怒らせし 谷地海紅
諦めていたのです、今年はネ。去年は卵から雛になって、毎日親が運ぶ餌を待って鳴いていたのにすっかりカラスに喰われてしまって、もうそんな危ない家には巣は作らないと思ったにちがいないのです。それで今年は例年の時期に巣を営まなかった。
乙鳥のことです。今朝巣作りに来たのです。信じて茅屋に巣を営むかどうか、まだ保証はないのですが、嬉しいのです。なお、カラスのことを怨んだことはありません、念のため。 教師我れ草笛なども少し吹く 鷺 孝童
13日(日)は論文を読む会。伊藤月田無(無迅)さんの「近代俳句史私論」を聞いた。「月並俳諧」批判の子規と「第二芸術」の桑原武夫とを重ねて、俳句史の枠を超えた日本近代史観ともいうべき広い世界。
海紅の要約によれば、内容は以下の通り。 1,明治は欧化主義と国民主義とのせめぎ合う政治の時代だった。 2,子規が政治家として野心を持って十代を送ったことは、漱石・碧梧桐・虚子・漱石らの証言で明白である。 3,子規の主張は陸羯南らの国民主義を背景に置いて吟味しなければ誤る。 4,ベンジャミン・フランクリンの近代合理主義に基づく子規の仕事は、おのずから日本文化の閉鎖性や封建性批判へと向かった。和歌俳諧革新というエネルギーの根源がそこにある。 5,太平洋戦争敗戦。桑原武夫「第二芸術」は子規の苦悩とアナロジーであるが、これによって深く傷ついた日本人もまた子規・武夫同様の苦悩の持ち主であった。 6,「第二芸術」の反響の大きさに驚いた最大の人物は著者桑原自身。よって彼の思想をとらえるためには、「第二芸術」以後の桑原自身の深化を把握しなければ誤るだろう。 7,子規の生涯は長くなかった。それは、桑原における「第二芸術」以後が、子規にはなかったことを意味する。子規にとって、それが幸福であったか、不幸であったかは難問。 8,残る問題は、子規・虚子・碧梧桐の総合的な吟味、留学がもたらした漱石の思想の変質、柳田国男の日本文化史観、虚子のもとを離れて俳句に西欧並みの詩を盛り込もうとした俳人たち、山本健吉の「純粋俳句」論、そしてなにより国力と文化力との間に横たわる力学の検討を通して解決がはかられる可能性が高い。 高く咲く泰山木の花は好き 淀川梨花女
卒業論文作成をめざす四年生との懇談で、論文題目を話題にすると、北村透谷にとって芭蕉とはどのような存在であったかとか、芥川龍之介が理解した芭蕉像などと言い出す学生が出始めている。かつてほとんどなかったこの傾向には、長い時間をかけて培われた国文学という概念の老化と入れ替わって、比較文学という概念からの影響が見てとれる。だが「芭蕉とは何者か」という問いも、突き詰めれば「芭蕉はどのように語られたか」ということだから、理論的には受け入れられてよい題目ではあろう。
芭蕉没後の享保期に「芭蕉発句はよき句もあれどうすし…」(沾徳随筆)として其角評価に及び、その流行から蕪村が誕生したり、一方で『沾徳随筆』いうところの〈薄きところ〉を以て江戸に芭蕉再評価が起こり、また美濃派の地方経営にが成功したりする。とこうして芭蕉に対する鑽仰と信仰が入りまじって、芭蕉翁の教祖化・偶像化が進み、俳句はカルチャー化して幕末へと向かう。 このような近世俳諧史研究と、以下のような近現代の芭蕉その他の俳諧受容にそれほど径庭のないことを再確認すべきかもしれない。すなわち、明治時代の芭蕉崇敬を北村透谷がどのように見て俳句を詠んでいたか、「芭蕉の俳句は過半悪句駄句…」(芭蕉雑談)という子規の判断の根拠は何か、二葉亭四迷の芭蕉評価が依拠する知識、内田魯庵の芭蕉評伝の検証、翻案の多い島崎藤村の作品にみる芭蕉や蕪村の追究、象徴詩人という蒲原有明の自画像を支える芭蕉像、それに継ぐ三木露風のフランス象徴詩研究に見る芭蕉・蕪村受容、芥川龍之介の「枯野抄」と「芭蕉雑記」「続芭蕉雑記」などの問題、室生犀星の『芭蕉襍記』、小野十三郎「奥の細道」や村野四郎「芭蕉のモチーフ」、また中山義秀『芭蕉庵桃青』ほか保田与重郎の芭蕉への言及などである。 新茶出て古茶となるなり自ら 素十
業務コンセプトが硬直して、5月の飛び石連休も暦通りの時間で拘束される時代になり、1日(火)・2日(水)と仕事にでかけた。一方、4日(金)・5日(土)・6日(日)は例年通りの集中講義(スクーリング)をいれていたので、休日の名に価する日は3日(木)だけであった。
情けないことに、集中講義最終日の昨日は少し疲れた。9時から16時10分までのおしゃべりを、三日続けたのだからやむを得ないか。それで、御褒美に、帰途の乗換駅で一人酒をふるまった。こんなときは誰と話したくもないし、一緒にいたくもない。 たそがれ時の小一時間を居酒屋の止まり木に止まり、目の前のガラスケースに冷えている魚を眺めながらくつろいだ。鰤と思われる一尾がレモンに顎をのせて横たわり、大きな目でボクを見ている。そのくたびれた表情を他人とは思えず、板さんに話しかけると、 ――鰤とまでは言えないかナ。まだワラサ(稚鰤)ってとこでしょう。 と言う。ボクは奮発してお刺身でいただいた。一日早い誕生日祝いであった。 海女たちに海より夏の来たりけり 多田渉石
連句の捌き手は音楽指揮者(コンダクター)に似ていると思っていた。いや、思い込もうとしていたかもしれない。しかし、楽譜のない音楽はない。即興性の強いジャズにだって楽譜があり、それに基く一定のリズムとスイングがある。とすれば、連句はもっと他のもので説かねばならない。そのあたりの不安が式目重視へと傾くのだろうか。
連句の捌き手は重要な仕事だが、その結果の善し悪しは連衆による。芭蕉もたしか、相手次第の文芸であると書いていた気がする。 白牡丹ばかりといふもまた見事 児玉葭生
「方違へ」という古い言葉がある。余所へ出掛ける際、目的地が天一神(なかがみ)なる神のいる方角である場合に、その方角を避けて、いったん吉方(えほう)にある家に一泊して方角を変更し、そこから目的地に向かう。天一神も吉方もわからない現代ではなんとも腑に落ちない話で、万物の生成を陰陽という二つの自然現象で説いた古代の俗信と片付けてよいだろう。
しかし、登山の際には変わりやすい山の天気に逆らわないように気をつけてきたし、交通渋滞を避けて抜け道を行ったりすることは今もある。なにも悪いことをしていないはずだが、バチばっかりあたっていると思う日もないわけではない。そんなときは、合わない靴を履き替えるように、人生の修正をこころみる必要があるが、これも一つの「方違へ」ではなかろうか。 ねじ花のねじれそめたるばかりかな 松尾美子
春の訪れ 椎名美知子
灰紫色にけむった林の中 小さなレストラン かすかにドアの軋む音 新しい客が 心地よい風を連れて入ってきた もうすぐあのドアから 〈待った!?〉 と 少し心配顔で あの人は現れるにちがいない 軽めのコートをひるがえして ちょっと息を弾ませて 肩のあたりに 小さな花びらをのせて 逢えばすぐ別れがきて 後ろも振り向かず去るのだから 甘い香りの記憶をたどって 今しばらく このときめきの中にいよう 〔解題〕詩誌『砂漠』№266(平成24年2月)所載。 発行者 河野正彦(〒802-0826北九州市小倉南区横代南町3丁目6-12)
葛西駅を降りて、村愁君おすすめの「ちばき屋」で支那ソバを食べ、地図を片手に旧江戸川に向かう。東西線沿いを十五分もあるけば浦安橋であった。なんとも優しい橋の名前である。防潮堤工事一色の妙見島を哀しくながめて、川べりを歩く。西野屋・吉野屋という船宿の釣り船や屋形船を見て、堤に映えている野草の匂いをかぎ、石段に腰をかけて風に揺れるポピーのオレンジ色に酔ふ。帰途に立ち寄った公園で、巣作りにかいがいしく精を出す鴉の夫婦を眺めた。巣はたくさんの針金ハンガーを用いて、とても丈夫そうだった。
「花は根に鳥は古巣に帰るなり春のとまりを知るひとぞなき」(崇徳院・千載・春)と詠まれた鳥の巣に季節は感じられないが、連歌・俳諧の歳時記類では春季としているものが多い。ただし、鳥によっては夏季であったり、無季とするものもある。崇徳の歌は〈いったい春はどこに帰ればよいのだろう〉という淋しい歌。 春風の窓開け放ち待ちくれし 海 紅 〔妙見島〕東京都江戸川区東葛西3丁目の一部。旧江戸川の中州である。南北約700m、東西約200m。かつて徐々に移動していた時代があり、「流れる島」と呼ばれていた。今は護岸工事がおこなわれて、その全体が工業地。北側に妙見神社。千葉氏の守護神である妙見菩薩を祀る。すなわち南北朝(十四世紀)以降の記録にある由。江戸時代は行徳船の航路。馬琴『南総里見八犬伝』や周五郎『青べか物語』の舞台。ai君の話では、子どものころの妙見島あたりは、釣り糸を垂れると、じきにカレイ(鰈)なんかが釣れるところだったという。
この悲慘を予想していたのだとしたら、
それは悪事そのものである。 もし予想し得なかったのだとしたら、 それは想像力の貧困だから、 いまは、 ともに泣くよりほかはない。 惜春や元々涙脆き僧 佐藤さとる
揺籃は桑籠なりし兄妹 射場秀太郎
月よりも暗き提灯桑車 小林 波留 桑の爪左にはめて左きゝ 小林 敏朗 桑蔵の桑いつぱいの暗きかな 荒金 久平 桑蔵のおそろしかりし昔かな 逢坂月央子
1.机銘
2.机銘 1.間なる時は ひちをかけて 嗒焉吹嘘の気をやしなふ 2.閑なる時は 肱を かけて 嗒焉吹虚の気をやしなゐ 1.しつかなるときは 書を紐とゐて 聖意賢才の精神をさくり 2.静 なるときハ 書を紐解て 聖意賢才の精神を探り 1.静なるときは 筆をとりて 羲素の方寸に入 2.しづかなる時は ふでを取て 羲素( )方寸に入 1.たくミなす おしまつき 一物三用をたすく 2.たくみをなす おしまつき 一物三用をたすく 1.高さ八寸 おもて二尺 両脚にあめつちの ふたつの卦を 彫にして 2.高 八寸 おもて二尺 両脚に天地の 二ツの卦を 彫にして 1.潜龍牝馬の貞に習ふ 2.潜龍牧馬の貞に習ふ 1.是をあけて 一用とせむや また二用とせんや 2.是を揚て 一用とせむや 二用とせんや 1.応蘭子求元禄仲冬芭蕉書 2.応蘭子求元禄仲冬芭蕉書 〔解説〕松倉嵐蘭所持の机に与えたと推定される芭蕉の文章(元禄5年11月推定)。題目「机銘」の「銘」は銘文の意。器物に彫って、そのはたらきを称える文章。『易経』による乾の卦(地に潜んで時節の到来を待つ龍)と、坤の卦(自分の力量を知って、従順に時機を待つ牝馬)の彫りものを読み取って、その机の功用を称える。真蹟は不明なので、1.『芭蕉庵小文庫』(史邦編 元禄九刊)と2,伝真蹟写し(伊藤松宇編『続蕉影余韻』所収 軸装)を並べてみる。 〔間・閑・静など〕 富山奏注(新潮日本古典集成『芭蕉文集』)は、「間」を「時間にゆとりがあり、ひまな時」、「閑」を「閑静な心境の時」、「静」を「あたりが静寂な時」と分けて解釈する。それに従えば、〈時間にゆとりある時はゆったりくつろいで気を養い、その結果として心穏やかに至れば、書物を読んで聖人賢人に学び、環境の静寂を得て書を学ぶ〉というふうに段階的な解釈がふさわしいということになる。これは「閑さや岩にしみ入る蝉の声」(『おくのほそ道』立石寺)の「心すみ行くのみおぼゆ」に矛盾しない。 〔嗒焉〕我を忘れるさま。 〔吹嘘〕ほっと息をつく。人心地がつく。 〔おしまつき〕机。和名(女房ことば)らしい。
昨年の『中央公論』(11月号)は「文学なんて要らない!?」という特集を組んでいた。ちょっと見には衝撃的なタイトルだが、「!?」とつけてゴマカスあたりは、夕刊紙や週刊誌の見出しのようでいただけなかった。すなわち、わが老眼が「!?」を認識したのは、うっかり買ってしまったあとであった。
文学は昔から要らないものであって、「要らない」などと、あらたまって言挙げされずともよいのである。だが、これも昔からある話だが、「無用の用」つまり要らないものにもハタラキはあって、その世界に人生を捨てようとする者は古来跡を絶たない。要るか要らないかは自分で決めるのだから、「文学なんて要らない!?」なんていう威嚇や恫喝は大きな御世話であると言ってよい。 漁師町らしく大きな蝿生まる 小佐野博史
1.事前に机を教室の隅に移動させ、人数分の椅子を出して置くよう、学生に指示する。
2.十二支の着ぐるみのお手玉を持参する(わが妹がわが子たちにくれたプレゼントだが、ほとんど未使用)。お手玉に限らず、卓球の球や、球技のボールなども考えられる。 3.学生を七人から十人程度のグループに分け、車座に座らせる。 4.無作為に抽出したお手玉を車座に投げ入れ、受け取った学生をそのチームの中心とし、お手玉の動物をチーム名とする。 5.中心の学生から左回り(あるいは右回り)に、順番に一言自己紹介をさせる(一言である点が大切)。 6.一巡後は、中心の学生から、再度、あるいはもう少し自己紹介をして欲しい仲間にお手玉を投げさせる。 7.受け取った学生は、姓名を繰り返したあと、さらなる一言自己紹介を加え、あらたな仲間にお手玉を投げ与える。これを繰り返して、相互に全員の姓名をおぼえるように指導する。 8.それぞれ、チーム内相互の姓名が言えるかどうかを確認し、班長を互選する。 9.班長会を編成して、一名をゼミ長とし、その他を副ゼミ長とする。 10.チームごとに、今年度の研究テーマを検討するように指示して、シラバスをスタートさせる。
煙が見えて、少しずつ機関車の音が近づいてくる。
――さみしくなったら、手紙をよこすんだよ。 妹はなにも答えない。 ――手紙はさみしいときのためにあるんだからね。 妹は姉をみつめて小さくうなずいた。 うつむきしとき赤き襟春の宵 実花
止まり木に腰をおろしたボクの耳に、女将がささやく。
――お隣の御夫婦は北海道の方よ。 ――ほう。 ――お孫さんの顔を見に上京されて、明日には帰るとか。 そう言って、この夫婦にボクも北海道出身であることを伝えた。 聞けば、道東の別海町で酪農を営んでいるという。北海道訛りで、懐かしくふるさとを語り合う。ホテルに戻るにはまだ時間があるというので、ボクは池袋演芸場をすすめた。取りには間に合う時刻である。お互い名乗ることなき出逢いであった。 花一朶花一朶人皆老いし 素十
日時 五月十二日(土) 午前十一時
場所 義仲寺 会式 神事・奉扇の儀・献花献茶・読経焼香・献句奉詠・風羅念仏踊り奉納 浄斎 俳句会 無名庵にて 大津市馬場1丁目5-12 義 仲 寺 phone 077(523)2811
光について莫大な知識をもっていても、暗闇は照らせない。われわれの人生は暗闇なのである、概して。そんな中で知識の切り売りのようなことばかりしているインテリでは、我が身一つも癒すことはできず照らすこともできない、ということを痛感していた。哲学も宗教も科学も、真に照らす光は放っていない、光の知識をひけらかしてばかりいる。それでは間に合わないと、わたしは思って、じっと自分の身内を、その闇をのぞき込んでいたが、かなしいかな、わたしは、まだまだ闇そのものでしかなかった。自ら発光していない。なにも分かっていない。手を引いてくれているのはバグワンだけであった。
〔秦 恒平〕はた こうへい。小説家。昭和十年(一九三五)京都市生。同志社大学大学院中退。上京して出版社勤務。「清経入水」で太宰治賞。「廬山」で芥川賞候補。職を辞して、東横学園女子短期大学(非常勤講師)、東京工業大学(客員教授)を勤める。日本古典に詳しく、それをモティーフとした文章多し。谷崎潤一郎に傾倒、漱石『こゝろ』の解釈に新説あり、小森陽一説を評価。自著を「湖(うみ)の本」として会員頒布。この文章はその「湖の本」111、『千載和歌集と平安女文化 下』(平24.4.5刊)のあとがき「私語の刻」による。
昭和11年 2月 虚子渡欧/4月 虚子講演「何故日本人は俳句を作るか」(ベルリン日本学会)/5月 ロンドンからパリへ/8月 虚子『渡仏日記』刊(改造社)/10月 草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名/11月 虚子『句日記』刊(改造社)/「外国の俳句」欄開始/12月 「年尾古俳諧研究会」(鹿郎・旭川・三重史・九茂茅・清吾・蘇城・涙雨・大馬・青畝・年尾)
昭和12年 2月碧梧桐没/4月「外国俳句座談会」/虚子の句の仏語翻訳連載開始/6月 虚子『五百句』刊(改造社)/帝国芸術院創設(虚子会員に推挙さる)/7月日中戦争はじまる/9月 俳句文学全集『高濱虚子篇』刊(第一書房) 昭和13年 3月『[誹諧』創刊/4月 「ホトトギス」五百号/8月 虚子選『ホトトギス雑詠選集・春の部』刊(改造社)/9月鬼城没/11月 俳諧詩「春雨」「運転手」虚子(「誹諧」)
ボクの持論のひとつに〈俳句には描けることと、描けないことがある。それを正しく理解して、俳句という詩型の限界をわきまえている者を俳人という〉というものがある。芭蕉は「詩歌連俳はともに風雅なり。上三つのものには余す所もあり。その余す所まで俳はいたらずといふ所なし」(土芳『三冊子』)と言ったが、それはあくまで十七音という制約を前提にした発言であろう。とすれば、「馬ごとにこはきものなり。人の力、あらそふべからずと知るべし。乗るべき馬をば、まづよく見て、強き所、弱き所を知るべし。次に轡・鞍の具に危き事やあると見て、心にかかる事あらば、その馬を馳すべからず。この用意を忘れざるを馬乗りとは申すなり」(『徒然草』186段)という意見に異ならない。
坂本宮尾著『この世は舞台』に「ものに即して詠むことを心がけたいと思ってはいるが、何かの拍子で、ことばが勝手に句の形に並んで出てくることがある。そのなかでおもしろいと思うものを残しておく。おもしろいといっても、具体的に説明できるとは限らない。解釈できないところ、意味を離れたところに、言葉の不思議さがあるのだろう。作者だけ満足していて、読者は首をかしげているばかりという事態は避けたい。そこで他の人の意見を求めるのだが、誰かが理解を示してくれても、どこまで私と同じことを感じているかは疑問だ。結局、自分の句はそのときの自分の感性の範囲で取捨するほかない」(「混沌」)という一節がある。 良識ある俳人なら、誰もが苦悩するこの問題は、基底において、おそらくボクの持論とつながっているように思う。
現代英米演劇を講じていた桑原文子先生が、定年を待たずに退職。その挨拶で、日本の大学の休暇中にアメリカに出掛けても、存分に芝居を鑑賞するのは難しいということを教えられた。時期がずれているのだ。退職後はその支障がなくなることを喜んでいた。
先生は青邨に師事した俳人で、俳壇では坂本宮尾という。「宮尾」はミヤオと読む。猫の自由さを好んで、その鳴き声から命名。「句会で名乗るたびに気恥ずかしいが、これで猫の仲間入りができるなら仕方がない」(「猫」)と書き、「おしゃれなシャム猫になるのは無理として、私は勝手気ままなノラ猫でありたい。そして、できれば長靴を履いた猫、はたまた猫型ロボットのドラえもんを親友にもちたい」(同)ともいう。ねっから「俳味」の人である。職場で俳人を匂わせず、英文学者の顔で通した自分を、隠れ切支丹と呼んで笑っていた。お別れに角川選書版『杉田久女』(角川学芸出版)と、句集『この世は舞台』(蝸牛社)をいただいた。前者は平成十五年に富士見書房から出た好著の選書化。手書きの栞に「これからは俳人として、よろしく」とある。さて、似非隠遁者みたいなボクに、そんな機会があるだろうか。 橋あれば卒業の日の父のこと 宮尾
忙しくて、今春は梅の下に立つこともなく終わるなあと思って歩いていると、あちこちの庭に、里山の日当たりにたくさんの花をつけている梅をみつけた。今年は梅も遅かったようだ。
梅そなふ凍てたる石を父として 天田ふじ 引き止めてほしき別れや梅夕べ 赤城範子
K先輩へ
谷地です。Kさんにいただいた宿題、蕪村句「人間に鶯啼や山ざくら」(遺稿59)の「人間」の読みについて報告です。結論は、ジンカン・ニンゲンと読んでも、ヒトアヒと読んでも蕪村の意図をそれることはないと考えます。どちらかに決めよと迫られれば、この句の場合、ジンカン・ニンゲンと読む方が余情深しと答えたいと思います。正直に言えば、ヒトアヒと読んで、人間へのお愛想で鶯が啼くという近年の解釈には心がときめきません。蕪村を三十年以上読んで来ましたが、彼にはそのような作風はないとさえ思います。 「人間」という漢語には、おそらくジンカン・ニンゲンという読みに前後して、ヒトアヒという訓も生まれた。読みとは意味であるという視点で言えば、ニンゲン・ジンカンと読めば「世の中」「人の住む場所」の意ですが、ヒトアヒと和語に読めば「世間」における〈人づきあいや思慮分別〉という情緒的な意味が加わる。その意味を重んじる結果として、「人間」から「人愛(ヒトアイ)」「他愛(ヒトアイ)」という宛て字が派生したのではないか。つまり、漢語を輸入して言葉の豊かさを育んできた日本には、ジンカン・ニンゲンという言葉と、ヒトアヒという言葉の二語があった。しかし、両者の語義に反目するほどのものはない。 前田金五郎氏に従えば、「人間」はヒトアヒと読んで「人づきあい。人に対する愛想。人あたり」の意で、近世には「人愛」とも書いているようです。用例には「―、心ざま優に情けありければ」(平家八・妹尾最期)をあげています(『岩波古語辞典』)。『日本国語大辞典』でも「ひとあい」に「人間・人愛」の字を宛て、やはり「人づきあい。人に対する愛想」と解説し、用例に人情本『春色梅美婦彌』初・一回「これ扁屈なる野暮人を、和らかにして他愛(ヒトアイ)を自然と生ずるものぞかし」を加えて、「他愛」という漢字も宛てられたことがわかります。 近世の蕪村理解において、これは無視できないと研究者は考える。それで、「静かな山あい、わざわざ山桜を尋ねて来た人に対するお愛想のつもりでか、時ならぬ鶯が鳴き声を添えている」(尾形・森田『蕪村全集(発句)』講談社 平成4)という解釈になった。『蕪村全句集』(平成12)にも「山奥の桜を見に来た人に、花だけでは寂しかろうと、お愛想に美しい鳴き声を聞かせてくれる意」とあって、その基本的な理解は講談社『蕪村全集』に同じです。【解1】 しかし、句意を〈世間にむけて、つまり人間にむけて鶯が啼いている〉という控えめな解にとどめるべきか、あるいは〈人へのお愛想で鶯が啼いている〉とまで踏み込んで解説すべきかどうかは、にわかには決められない。それは注釈者の思い入れで微妙に異なる範囲だからです。個人的には「お愛想に」と副詞句的に解釈するのを好みませんが、かといって両者には二説と見るほどの違いはないのではないでしょうか。 拙解を示せば、〈山に桜を楽しみに来た客に、ときおり鶯が啼いてくれることだ〉ほどの句意になります。人がいて、鶯の声も聞こえるこの境界は、むろん世間と呼ばれる市街地ではありませんが、ことさら山深くでもありません。鶯と人間との折り合いがついている中間的な空間がふさわしい。【解2】 管見による限り、新注でヒトアヒと読んだ最初の人は木村架空の『蕪村夢物語 春の部』(375頁)と思われます。鳴雪・鼠骨・碧梧桐・虚子等の『蕪村遺稿講義』が人間に向かって啼くとする【解3】のに対して、架空は〈雨間(あまあひ)幕間(まくあひ)などの如く、人の途切れた間を云ふのだ〉と書きます。人が途絶えたから安心して啼いたというのですから、人に親和しない鶯ということになり、通解とは正反対の解釈と言ってよいようです。【解4】 朔太郎は『郷愁の詩人与謝蕪村』において、「行人の絶間絶間に鶯が鳴く」とする「ひとあひ」説を修辞上は穏当と認めながらもニンゲン説を支持し、この「言葉の奇警で力強い表現」に一句の生命を発見し、「人跡全く絶えた山中」で、ニンゲンに驚いた鶯の鳴き声が、「四辺の静寂を破っている」と鑑賞しています。【解5】 ヒトカンと読む説もあります。草田男『蕪村集』からの孫引きですが、志田義秀は用例をあげて、「間」は「閑」に同じという見解から、ヒトカンにと読ませて「人が閑にある」意としています。気ぜわしく鳴く鶯との対照だというのでしょう。【解6】 草田男はこれを支持し、ニンゲンと読むと「思わせぶりないやみが生じ、しかも全体の意味が不鮮明に」と言い、「この時代の日本の詩歌に」人間(ニンゲン)などという言葉が生で用いられたかどうかははなはだ疑問と書いています。 また、ヒトアヒ説に対しては、「桜が咲いている山道を人が通りかかるたびに鶯が鳴き声をやめる、しかし、人が去ってしまうとすぐにまた鳴く」という意味で、一応筋が通るが、「山道をそうしばしば人が通るのもおかしいし、路傍のくさむらにただ一羽の鶯が潜んでいるわけでもないのに足音の度ごとに鶯がやむのはおかしい」と批判しています。 ヒトアヒに「人づきあい。人に対する愛想」という意味があることを、架空・草田男を含めて明治以後の評者すべてが承知していなかったようです。 しかし、蕪村句の「人間」をヒトアヒと読み、「人づきあい。人に対する愛想」という意を強く打ち出すことに、わたしは強いためらいを持っています。 【附記】 『蕪村事典』(桜楓社)で村松友次先生は示したこの句の注解一覧は、鳴雪他『蕪村遺稿講義』・鼠骨『続蕪村俳句評釈』・架空『蕪村夢物語』・蕗台『続蕪村物語 春』(この書『蕪村夢物語』の名でも流通か)・朔太郎『郷愁の詩人与謝蕪村』・草田男『蕪村集』・健吉編/草田男訳『古典名句集「蕪村名句集」』(日本国民文学全集14/河出新社)・潁原他『与謝蕪村集』(朝日古典全書)です。
芭蕉が教えてくれたこと-『おくのほそ道』に学ぶ
今日は初登場の東洋大学文学部日本文学文化学科教授 谷地快一先生による標題の講座です。先生は「芭蕉は1689年に150日間、東北・北陸を巡りました。そして1702年に、多数の俳句が織り込まれた『おくのほそ道』が刊行されました。この『おくのほそ道』を丁寧に読むと、この旅は、単に<行って戻ってくる>旅ではなかったことが分かります。今日はその理由をお話しします。 芭蕉は人生後半の10年を、旅に充てましたが、彼は人生をどう捉えて旅をしていたのか。それを理解頂ければ、きょうのお話は成功です」と、前置きされて、以下のようなご説明をしてくださいました。 1 人生の捉え方 日本の教育は、『方丈記』序にあるような人生の捉え方を教えてきました。『方丈記』序の無常観や諦観を読んでいると、気が滅入ってきませんか? 寂寞たる無常観ではなく、もっと生き生きした人生観や生き方があるのではないでしょうか? 2 旅の捉え方 『おくのほそ道』序では「月日は百代の過客にして、行き交う年も又旅人也」が有名です。ところが平成8年、250年振りに芭蕉自筆の『おくのほそ道』が発見され、「行き交う年」の箇所には推敲の跡があり、この下張から「立ち帰る年」という記述が見つかりました。 「立ち帰る」とは、行って戻ってくることを意味しますが、「行き交う」とは、逢って別れることです。逢って別れることに、スタ-トやゴ-ル地点はありません。「行き交う」とは、行く年・来る年、常に繰り返すことです。芭蕉はこのように、時間の流れを捉えていました。彼の『おくのほそ道』は、「立ち帰る」旅の本ではなく、「行き交う」旅でありたい、と願う作品だったのです。『方丈記』に比べて、なんと前向きな思考でありましょうか。 3 連句について (ここで先生は、連句の構成について解説され、『伊勢物語』、『遍昭集』、『西鶴大句数』などで付合の実例を紹介されました) 芭蕉は、「5・7・5」に「7・7」を付ける連句によって、この「行き交う」旅をしました。この旅での土地の人たちとの連句回数は合計30数回に及んでいます。 4 俳句について このような連句(俳諧の連歌)の文化は、明治以降、沈潜化してゆきました。そして俳諧(和歌)の発句(最初の5・7・5)が独立した俳句が盛んになってきました。これは、自我中心の欧米文化の流入で、仲間と一緒に作る連句は時代に沿わない、という評価が広がったのが原因です。 しかし、5・7・5のあとに、7・7をつけたくなるようなことはないでしょうか。「逢って別れる」旅、「再生を繰り返す終わりのない時空」を考えるのもいいのではないでしょうか。 講師は、以上のようなことを、具体例などを示し、ユーモアを交えて、極めて明快に説明されました。満席の受講者も十分理解でき、俳句などへの関心も高まったようで、以下は参加された方のご感想の一部です。(小野) ・色々と知らなかった事を知ることができ、人生のゴールは無いという考え方が良かった。 ・松尾芭蕉の名前と名句の少しは知っていたものの、俳句に関しては全く無知だった。今回の講演で芭蕉の「おくのほそ道」が伝えたかった人生の流れ、人と人との交わりが旅であり、彼の云いたかった点であり、それが連句にも生かされていることを初めて知った。これから、もう少し芭蕉と俳句・連句を勉強してみたくなった。俳句に「七七」を付けることが出来るということを初めて知った。第2回目の講演が是非聴きたいです。 ・自分には縁遠かった俳句の世界が身近になりました。素晴らしい講座でした。芭蕉自筆の「写し本」拝見したが、あまりの達筆と字の美しさに感銘を受けた。ユーモアをまじえてお話しが良く分かり、楽しい講座でした。またの講座お待ちしています。 【解説】 これは、たまたまネットで遭遇したボクの講演の要約である。ネットのタイトルは「ふれあい塾あびこレポ-ト」。思いおこせば昨年の十月二十四日(月)、なつかしい常磐線に乗った。「ふれあい塾あびこ特選公開講座」なる企画で我孫子市へ話しにでかけたのだ。題は「『おくのほそ道』に学ぶ―芭蕉が教えてくれたこと―」。この記録は聴講者のお一人(小野さん)がまとめてくれたようだ。ボクは講演に際して詳細なノートを用意しないから、自分でもどの程度の話をしたか、相手に通じたかどうか、明らかな記憶はないのが普通。よって、ありがたく転載させていただく。講演が好きか嫌いかと問われれば、嫌いと答えてきた。理由は、初めてお目にかかる人々に、一方的にしゃべるのはストレスそのものだから。大学の講義のように、不足があれば次回に追加したり、聴講者の習熟度を確かめたりできるケースはその限りではない。しかし、職場から派遣されたり、公民館事業への協力であったり、そうした仕事を拒みきれない現実がある。このケースは出かけてよかった例で、後味のよいもの。まとめに苦心された小野氏によそながら感謝したい。
ナンジ 会社をやめることにしました。
ソナタ ……。 ナンジ 家業を継ぐことに…。 ソナタ ………。 ナンジ ほとんどイジメの世界でした。 ソナタ ………。 ナンジ 就活には勝ったんだけれどナー。 ソナタ そんなことを言うようじゃ、まだ芭蕉がわかってないナ。 ナンジ ……。
鎌倉円覚寺教導日本橋に晒す。
玉の盃、底なきがごときと言へど、色好むは人性にして、 好まざるは獲麟よりも稀なり。あるは染殿の姫を思ひ、又は 物洗ふ女に迷ふ。やごとなき僧正、雲に住む山人すら、この 一筋は踏みとめがたくやありけん。 僧教導は仏道のいさをしも九五近き身の、戒を破りし罪と なん、巷に面をさらさるる。余所目さへいとほしく、にがにがし くぞ侍る。 雪汁のかかる地びたに和尚顔 〔鎌倉円覚寺教導日本橋に晒す〕 女犯の僧は日本橋の橋詰めに三日さらし、その後追放された。 〔玉の盃、底なきがごとき〕 『徒然草』第三段を踏む。 〔獲麟〕 「獲麟」は想像上の動物麒麟をとること。たいそう稀なこと。 〔染殿の姫〕 染殿の后。藤原明子(アキラケイコ。文徳帝の女御)。紀僧正(真済)が藤原明子(染殿后)に一目惚れした結果病死し、死後紺青色をした鬼、あるいは天狗と化して后(明子)のもとに現れて悩ませたので、比叡山無動寺の相応和尚に退治されたという逸話がある(『古事談』巻三・『宝物集』巻二)。紀僧正(真済)は空海の高弟で『性霊集』の編者でもあり、文徳帝の信頼も篤かった。染殿は清和天皇の母でもある。 〔物洗ふ女〕 久米仙人に神通力を失わせた女(『今昔物語集』巻十一)。 〔九五〕 キュウゴ。易の卦で最上位。天使の位。 【解題】 小林一茶が相生町五丁目(東京都墨田区緑町一丁目)の新庵(借家)に入った、文化元年の暮れの作。四十二歳。一茶と鎌倉との関わりを調べていたら、ふと目に飛び込んできた。それで備忘に書き留める。
木久扇1 向こうから坊さんが来るね。
木久扇2 ソーかい。 * 木久扇1 坊さんがふたり。 木久扇2 ソー、ソー。 * 木久扇1 貸したコーモリ傘返して。 木久扇2 ごめんコーモリやす。 木久扇1 だから傘ナイって言ったんだ。
今栄蔵『芭蕉年譜大成』角川書店
岡田利兵衛『蕪村と俳画』八木書店 今栄蔵『芭蕉伝記の諸問題』新典社 田中善信『芭蕉=二つの顔』講談社 高橋庄次『芭蕉庵桃青の生涯』春秋社 井本農一『芭蕉入門』講談社学術文庫 櫻井武次郎『連句文芸の流れ』和泉書院 浪本澤一『芭蕉七部集連句鑑賞』春秋社 安東次男『芭蕉七部集評釈』集英社 阿部・久富『詳考 奥の細道』日栄社 久富哲雄『おくのほそ道 全訳注』講談社学術文庫 松隈義勇『『おくのほそ道の美をたどる』桜楓社 堀切実『「おくのほそ道」解釈事典』東京堂出版 麻生磯次『奥の細道講読』明治書院 新芭蕉講座6『俳論篇』三省堂 堀切実『俳聖芭蕉と俳魔支考』角川選書 村松友次『謎の旅人 曽良』大修館書店 山下一海『芭蕉と蕪村の世界』武蔵野書院 村松友次『鑑賞日本の古典17 蕪村集』小学館 尾形仂『蕪村の世界』岩波書店 岡田利兵衛『蕪村と俳画』八木書店 村松友次『蕪村の手紙』大修館書店 安達直朗『遊女風俗姿細見』展望社 上田都史『自由律俳句文学史』永田書房 片山由美子ほか『俳句教養講座』(全三巻)角川学芸出版
:怖いものはありますか?
大田:あの世があったら、怖いです。地獄でも、天国でも、怖いです。美輪明宏さんが言うみたいに、みんな気体になっていて、誰が誰だかわからないならいいですが、人間の形をしていて、またイヤなやつに会うとか、序列があったり、付き合いがあったりとか、そういう形の死後の世界があったら、とても、とても怖い(笑)。死んだら、ゼロになりたい。 ―〈[大田美和]への99の質問〉より抽出― 【解題】 「[大田美和]への99の質問」は文芸誌『北冬』№013(2011.12 北冬社)所収。〈特集◇[1000年の言葉]の向こうへ〉という企画で、この号は大田美和(歌人・英文学者)が責任編集。質問のなかで、「自分の歌で、好きな一首は?」という問いに、「終わりがあると知ればなおさら天翔る得意絶頂の歌にひかれる」という〈シューマンの音楽と生涯を念頭に置いて作った歌〉をあげている。
白雨や戸板おさゆる山の中 助 童
去来曰く「黒崎に聞きて、これに及ぶなし。句体風姿あり、語呂とどこほらず、情ねばりなく、事あたらし。当時流行のただ中なり。 世上の句、多くは、とする故にかくこそあれと、句中にあたり合ひ、あるいは目前をいふとて「ずん切の竹にとまりし燕」「のうれんの下くぐり来る燕哉」といえるのみなり。 この児、この下地ありて、能き師に学ばば、いかばかりの作者にかいたらん。第一、いまだ心中に理屈なき故なり。もし、わる功の出で来るに及んで、またいかばかりの無理いひにかなられん。おそるべし。 〔助童〕 筑前(北九州市)の蕉門推颯の子。 〔黒崎〕 今の北九州市八幡区黒崎。 〔風姿〕 姿情のうちの一方である「姿」のこと。一句全体の形。整ったカタチ。芭蕉は単に歌の風体(外見上の様子)に倣って「姿(form、appearance)」と言ったが、支考は姿情融合を説くために、「風姿」「風情」の二つに分けて説いた(『葛の松原』・『続五論』・『去来抄』修行)。 〔語呂〕 口調(tone)。 〔情ねばり〕 理屈の押しつけ、強要。文中「とする故にかくこそあれ」のたぐい。 〔わる巧〕 悪巧。わるごう。悪ふざけ。ここでは「情ねばり」や理屈。 〔無理いひ〕 不自然で、姿の悪い句をつくる人。 【主旨】 筑前(黒崎)の助童という子どもの句を例にとれば、よい句とは〈外見が整っているもの〉である。外見のよさは、なめらかな口調(tone)と、事実の発見から生まれる。一方、ダメな句は、主義主張に傾いたり、ありふれた景色を描写したりするものである。 【解題】『去来抄』同門評の一節。備忘に掲げる。
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