私を俳文学研究者の端くれに育ててくれた月例の研究会は代表のI先生の研究室(お茶の水女子大・文京区大塚)で行われ、年二回の機関誌を発行していたが、平成六年(一九九四)十二月で終刊。これで公式な歴史は閉じたけれど、H先生の「月例会は君の研究室で続けるから」というお達しにより、I先生長逝後の平成十一年(一九九九)一月から私の研究室をその会場とし、定年まで続けた。それは恩義のある先生方をお一人ずつ野辺送りする歴史で、同時に私自身の来し方行く末を考える時間であった。
紅花(村松友次)先生に〈研究者も俳人も捨てずに済む「芭蕉会議」という会を作って、そこを居場所にしたい〉と申し上げ、了解を得たのはそのころである。
「芭蕉会議」では芭蕉の言説に従って、以下の三点を理念に掲げ、蕪村らが採用していた衆議判に似た、互選という方法の大切さを説き続けている。
第一に〈俳句より私生活を優先すること〉
第二に〈俳句会では何より再会をよろこびあうこと〉
第三に〈俳句会ではよい読者を目指すこと〉
滴りにバケツ据ゑたるソロキャンプ 海 紅