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2021年賀

あけましておめでとうございます

   2021年辛丑歳旦

旧識の欠くることなく初鴉  海 紅

# by bashomeeting | 2021-01-02 09:18 | Comments(0)

 明治四十一年(一九〇八)四月二十八日、七百八十一名の日本人を乗せた最初の移民船、笠戸丸(六〇〇〇トン)は神戸港をブラジルに向けて出航し、およそ二ヶ月後の六月十八日にサントス港に入港した。その中に上塚周平(俳号瓢骨)がいた。

  涸滝を見上げて着きぬ移民船  瓢骨

 彼は移民の輸送監督として渡伯し、ブラジル移民地の建設に生涯をかけて「移民の父」と崇められた。
 その俳句の師が、昭和初期に入植した佐藤謙二郎(俳号念腹)である。念腹は原始林を開墾して珈琲を栽培し、稲や玉蜀黍を植え、豚を飼うという試行錯誤の果てに、牛を飼うことでようやく暮らしの安定をはかり、かたわら九百回におよぶ俳句普及行脚を経て二千数百名の俳人を育て、六百ほどの俳句会を指導した。ブラジルは国民の九十パーセントがカトリック教徒で、ポルトガル語を話す国である。日本移民とはそうした異文化の地に四季を発掘し、俳句を移植するという偉業を成し遂げた人々でもある。
 その歴史が佐藤牛童子編『ブラジル歳時記』(十月刊、日毎叢書企画出版)としてまとめられている。これはサンパウロ市の四季(二十四節気)に基づき、巻頭にブラジルの花や果実、二百三十六点のカラーグラビアを掲げる。四季は夏(新年)、秋(二月から四月)、冬(五月から七月)、春(八月から十月)、夏(十一月から十二月)に配列し、全二千百余の季題を立項、季題の解説と例句を収めている。編者牛童子(本名篤以)氏は佐藤念腹の末弟である。
 ちなみに、ブラジルでは日本人移住百周年の二○○八年を記念して『人文研究叢書』が刊行され、その四集「ブラジル日系コロニア文芸上巻」に栢野桂山「ブラジル俳諧小史」がある。俳誌『雪』(新潟市)が一月からその転載を始めた。(下略)

▶▶本阿弥書店の『俳壇年鑑』で十年余り、「各界展望◎俳文学界」という欄を引き受けていたことがある。掲出の「句を植えた人々」は、その平成19年(2007)版のタイトルで、転載した部分は導入部。珍しい『ブラジル歳時記』の紹介が目的であった。佐藤念腹評伝『畑打って俳諧国を拓くべし』を紹介したのを好機とみて、ここに併出。やがてどこかに紛れ込んでしまうにちがいない拙文、備忘のつもりである。ちなみに、上塚周平(俳号、瓢骨)は熊本の人で、旧制第五高等学校(熊本大学)で夏目漱石に学び、正岡子規とも接点があって、佐藤念腹と出合う前から俳句をたしなんでいたことを附記する。

     大統領選挙の群の跣足人    瓢骨
     信あれば文は短し秋灯下    念腹


# by bashomeeting | 2020-09-11 15:45 | Comments(0)

 教職から解放されて来し方を振り返る日々に、ほつほつと久闊を叙する機会に恵まれるのは嬉しい。新潟の畏友安田畝風氏から『畑打って俳諧国を拓くべし―佐藤念腹評伝』を恵与された。俳誌『雪』(新潟市)の現選者である蒲原ひろし(本名、宏)先生の大著である。無音に打ち過ぎている櫻井浩治先生(新潟大学名誉教授、俳号塚田采花)が帯を書いている。まずは、簡にして要を得たその全文を紹介する。「異色のブラジル俳句史」「大正・昭和新潟県俳句史資料」と銘打つが、ほぼ近代俳句史の名を冠してよい内容である。

*******以下、帯の全文*******

昭和の初期にブラジルに開拓農民として移住し、師高濱虚子の期待に答え、日本人移民の村々を廻り六千人余の門人を育て、日本の俳句を根付かせた巨匠。
在ブラジルの日本人移民社会結束の核として俳誌「木蔭」を創刊し日本人の文化的水準の高さを証明し、高い社会的地位確保の突破口を開いた。「サトオ通り」の町名を残す。
〝ブラジルの虚子〟と称された新潟県阿賀野市(旧笹神村笹岡)出身の一移民俳人の壮烈な生涯を追った力作。念腹氏は俳誌「木蔭」主宰。俳誌「ホトトギズ」同人。俳誌「まはぎ」誌友。
中田みづほ・高野素十・濱口今夜「ホトトギス」三羽鴉の新潟医科大学俳人教授と刎頸の親友であった。

▶▶蒲原宏著『畑打って俳諧国を拓くべし―佐藤念腹評伝―』。自序。長谷川和宏(俳号、隼人)跋。口絵に念腹句の2枚の短冊と念腹の写真。帯に櫻井浩治(新潟大学名誉教授、俳号塚田采花)が紹介の筆をとる。書名の「畑打って俳諧国を拓くべし」は念腹に送った虚子の句。総ページ数702。定価(本体3,000円+税)。大創パブリッシング発行、令和2年(2020)6月刊。


# by bashomeeting | 2020-09-11 12:22 | Comments(0)

マスクひとつ止められなかった
ベッドひとつ与えられなかった
検査ひとつ受けられなかった
だから、誰も数値を知らなかった
だから、誰も責任を感じなかった
だから、誰も責任をとらなかった

# by bashomeeting | 2020-08-16 10:15 | Comments(0)

   序                           谷 地 快 一

    ――わかった。応援してるよ。
   こう言って、M先生は万札を数枚、はだかでわたしの手に握らせた。
    ――ガンバッテください。
   Kさんも同様に祝儀を差し出した。俳文芸研究会後の酒席で、芭蕉会議を立ち上げる決意を伝えた際の一コマである。この研究会はわたしを国文学研究者の端くれに育ててくれた学者の集まりで、代表のI先生亡きあとの月例会は、わたしの研究室でおこなわれていた。
    ――ボクも身のほどを知るべき年齢になった。来し方を振ると、行く末は学者でも俳人でもない、その中間の道をさぐるのが自分に正直であるように思う。俳句を暮らしの杖にしたい人、学習を人生の糧にしたい人々にまじって、なろうことなら彼等の役に立ちたいと思う。
   お二人に申し上げたことは、おおむねこのようなことであった。仲間に古代史を研究するHさんがいて、御親戚の稲澤サダ子さんの句集『月日ある夢』(平成十四・二、文成印刷)をいただいたこともわたしの背中を押した。作者とは一面識もないが、青森県立女子師範を卒業した明治生まれの女性で、北海道で妻として母として、また教師として、生涯に五千句におよぶ俳句を詠んだ。卒寿を迎え、その子どもたちが三百数十句を厳選し、初の句集として母に贈ったのである。この世には美しい話があるものだと思った。

    春愁の思ひ過ごしと庭を掃く
    アカシヤの花の心を胸に挿し
    野に座せば吾も切株とんぼ来る
    腰紐の紅きをかくし木の葉髪

   このような句を遺した人の生涯が粗末であったはずはない。
   長く勤めた会社を辞し、カルチャー&エモーションをコンセプトに、カルテモという会社を立ち上げるといって、内藤邦雄氏が訪ねてきたのはこのころである。芭蕉会議が十年目を迎えると教えてくれたのは、彼のもとで芭蕉会議のサイトを一手に引き受けている向井容子さんである。この二人には感謝の言葉もない。
  ものごとには潮時というものがある。これまで何ができて、これから何ができるのかは仲間と相談して決めることになるだろう。評価は他人がするものだから。(平成28年12月6日)


# by bashomeeting | 2020-08-09 19:59 | Comments(0)

 俳句は17拍しかない。つまり短すぎる。だから、内容に手を入れると別の句になってしまう。そこで、ボクが教わってきたのは、手を入れるくらいなら捨てて振り出しに戻れということ。この「出直せ」という意味は新たに写実(事物の実際を写すこと)を試みよ、ということ。頭で作るなということ。
 宋代に編まれた漢詩撰集『三体詩』(1250成立)は、感情(心)を「虚」、カタチあるものを「実」と定義し、「実」の扱いが詩の品位を左右すると説く。俳句の世界でいえば、季題(季語)のほとんどが「実」であり、表現したいと願う感情(心)は「虚」である。「感情表現をしたければ、心から離れよ」というのは矛盾のようだが、その感情(心)をしっかり表現するには、季題(季語)をきちんと把握せよといっている。当然のことながら、添えるだけではダメであるということである。古典や近現代を問わず、独り善がりに終わらないための真実であろう。
 必要があって、他人の句に手を入れることはある。しかし、ボクにとって、それは国語教師として、正しい日本語表現にするためのアドバイスであり、他人の句を名句に仕立て上げるためではない。それほど傲慢ではないのである。

▶▶俳句はなんと不自由で、つまらない世界なのだろう。まじめに俳句を始めた人たちの中に、こういって句会から離れていく人は少なくない。そういう人々のために、こんなことを書き残しておくことにした。佳い句、悪い句はあるけれど、それは才能によるわけじゃない。


# by bashomeeting | 2020-08-05 12:14 | Comments(0)


薄氷を跳ねて寄り来る雀どち
農継ぐは這ふことに似て田草取る
夕立やけふのもろもろ洗ひゆく
蝌蚪覗く校長次いで教頭も
青空のどこかが欠けて夏果つる
この空の裏の記憶や敗戦日
歩数計見て夕月へまた歩く
夕月や妻楽しげに稲架を解く
間伐の木へ結ふリボン斑雪山
灯取虫入りてにはかに雨の音
西瓜食ふ白き歯の子にある未来
稲刈るや来季はやめる米づくり
干鱈をかるく炙つて聞き役に
夕立を眺め老躯を休めけり
夜の障子孤児は人前では泣かぬ
雪の夜や己へ歌ふ子守歌
灯台へ行けと夏草揺れやまず
灯台も世事も小さし朱夏の海
我よりも健康さうな草を引く
神饌のほほづき午後の日を返す
流星やなほ母郷向く兵の墓
悲しみにある安らぎや遠銀河
白梅や生きてゆく日々清らにと

▶▶奥田卓司句集『夏潮』〈たかんな叢書第45編〉。吉田千嘉子序。自跋。名勝、種差海岸写真(岩村雅裕撮影)をカバーとし、自ら題字の筆をとる。序跋によれば、作者は昭和十二年(1937)に東京は小石川に生を享けるが、戦争で父を、空襲で母を失い、孤児同然の生い立ちの由。七歳で青森県の八戸の親族に引き取られ、若くして失意の底をのぞいたゆえか、教育者の道を歩む。現在も、俳誌『たかんな』編集長をはじめ、俳人協会青森県支部幹事、青森県俳句懇話会理事、八戸市文化協会常任理事等々、多くの役職にある。まさに人望の人と評して誤るまい。先達に対して失礼ながら、ボクは常々「失意」は人生最大の贈り物であると語ってきた。本当の人生(自分)はそこから始まる。「失意」を知った人だけが、自分に厳しく、そして優しく、結果としてすぐれた作品を生みだすのである。そんな人品を彷彿とさせる二十三句を選び出してみた。たかんな発行所、令和2年(2020)7月刊。


# by bashomeeting | 2020-08-03 15:25 | Comments(0)

 伊藤無迅著『近代俳句史と「第二芸術」論』(私家版)の「(三)『第二芸術』の刊行推移」(P114)に、「①ノーカット版(発表版)」が「昭和21年11月雑誌『世界』に発表」とあるのは誤りである。GHQにゲラ刷り二部を提出したものが検閲処分され、デリートされた「第二芸術」が『世界』に発表されたというのが正しい。

▶▶現在、伊藤無迅氏追福のために、俳諧・俳句研究機関や研究者及び俳人に、無迅遺著『近代俳句史と「第二芸術」論』の謹呈作業を続けている。上記の指摘は、無迅遺著が引用する川名大氏(かわな・はじめ。俳句研究者)の礼状に示された内容の要約である。その旨を記し、学恩に深く感謝する。
# by bashomeeting | 2020-08-01 15:25 | Comments(0)

水を運び、薪(たきぎ)をとり、湯をわかし、茶をたてゝ、仏にそなへ、人にもほどこし、吾ものむ。

▶▶伝利休聞書『南方録覚書』(16世紀末成立か)の一節。連歌俳諧の座の心得はこの茶道の心に異ならない。つまり、会席を支える作業に会者のすべてが奉仕し、暮らしに根付いた物心両面の成果を一会に持ち寄り、ことばによって確認し、そのすぐれた成果を共有し、寛容を学んで、日常に帰ることである。その手続きを厭い、志を持ち得ない者は参加に価しない。

# by bashomeeting | 2020-07-22 20:58 | Comments(0)

 やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして、天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、たけき武士(もののふ)の心をもなぐさむるは歌なり。(下略)


▶▶『古今和歌集』「仮名序」冒頭の一節。〈乾坤の変と向き合えば、誰もが歌を詠む〉〈生あるものはすべて、見るもものや聞くものに託して歌にする〉という。誰もが知っている一節だが、「見るもの聞くもの」を〈漫然と見る、漫然と聞く〉レベルと思って、疑わない人が多い。そういう人たちの多くは〈実は見ていない、実は聞いていない〉人なので、自分の心にばかり拘泥して失敗している。31拍(モーラ)の短歌はいざ知らず、その約半分の俳句で自己に終始するのはきわめてむずかしいことだと思う。17拍という短さを武器に自己表現するための技巧は〈ことばを飾らない〉ということに尽きる。風流とか感傷に走ると、必ずことば数が増える。これを避けるために、俳句を〈省略の詩〉〈引き算の歌〉などという人もいる。



# by bashomeeting | 2020-07-05 15:51 | Comments(0)

〔訓読〕陳亢、伯魚に問ひて曰く、子も亦異聞有るかと。對へて曰く、未し。嘗て獨り立てり。鯉趨りて庭を過ぐ。曰く、詩を學びたるかと。對へて曰く、未しと。詩を學ばざれば、以て言ふこと無しと。鯉退きて詩を學べり。(下略)

〔通釈〕陳亢が伯魚に、「あたなは先生のお子様です。世間の親は自分の子供に対して特別な扱いをするものですが、あなたも亦、先生からわれわれとちがった特別の教えを聞いていますか」とたずねた。伯魚は次のように答えた。「今までそういうことはありませんでした。ただ、ある時、父が一人で縁側に立っている時、私がその前を小走りして父に敬意を表しながら庭を通り過ぎますと、父が呼び止めて、『鯉よ、お前は詩を学んだか』と言われたので、『まだでございます』と答えました。すると父は、『詩を学ばなくては人と話ができないよ。詩は人情の発露であり、言葉が洗練されて耳ざわりのよいものだ。詩を学びなさい』と申しました。そこで、私はすぐに引きさがって詩の勉強を始めました」(下略)

▶▶『論語』「季氏第十六」 13の一節。吉田賢抗著『論語』(新釈漢文大系1、明治書院、S35.5)から、読み仮名を除き「訓読」「通釈」を忠実に写し出したつもり。「陳亢(チンコウ)」は孔子の弟子「子禽(シキン)」(元服後の通称)の本名という。「伯魚(ハクギヨ)」は孔子の長男孔鯉(コウリ)の字(アザナ、元服後の通称)。よって「鯉」は伯魚に同じ。「對へて」はコタヘテ。「詩(詩経)」は中国最古の詩集で、黄河流域の民謡、宮廷歌、祭事詩を収める。伝存するのは、漢代の学者毛亨(モウコウ)によるテキストのみであるところから、毛詩ともいう。
# by bashomeeting | 2020-06-14 17:51 | Comments(0)

 詩を学ばなければ、他人(ひと)と話ができないよ。
 
▶▶掲出「無以言」の三字は「以て言ふこと無し」と訓ずる。座右の書である簡野道明講述『和漢名詩類選評釈』(大正3.10、明治書院刊)扉題の見返しにある、著者による墨書。典拠は『論語』「季氏第十六」 13。「詩を学ばなければ、他人(ひと)と話ができないよ」と解するために、次項「なぜ俳句を詠むのかⅥ」で少し補足したい。
# by bashomeeting | 2020-06-14 17:08 | Comments(0)

 お前には俳句を教えるのではない。人間を養うために俳句を教えるのだ。本当は人間が出来てから俳句を習う方がいいんだが、それでは間に合わんからナ。

▶▶高野素十が門下に説いた発言。長谷川耕畝「沐猴而冠」(モツコウジカン/モツコウニシテカンムリス)より抽出。長谷川耕畝著『俳人高野素十との三十年』(新潟俳句会叢書37、新潟雪書房刊、H15.12〉所収。ちなみに「沐猴而冠」の「沐猴」は猿の類の意。四字熟語は「外見は立派でも内実が伴わない人物の譬え」。いわゆる「項羽と劉邦」の項羽が、秦を破り関中(秦の都が置かれた地味豊かな地。陝西省)を手に入れたにもかかわらず、故郷へ錦を飾りたがる様子を見た武将が、項羽を揶揄したことば。人間の皮をかぶった猿、しょせん天下を治める器ではない愚か者。(史記・項羽本紀)
# by bashomeeting | 2020-06-13 18:30 | Comments(0)

 漱石が松山に居る時分に、私に話した事がありました。自分の目的は、完全な人間になるのにある、といふ事を申しました。完全な人間といふのは、どういふ事かと反問しましたら、漱石は、道徳的に完全な人間になる事をいふのである、と申しました。どういふ意味だかといふ事が私にはまだ詳しく合點がいかなかつたのでありますが、とにかく漱石といふ人は紳士でありまして、(中略)曲つた事、曖昧な事、うそが嫌いで、心の底から透明なやうな感じのする人でありました。(後略)

▶▶虚子『俳句の五十年』所収。『定本高濱虚子全集』13(毎日新聞社版)による。ここにいう「漱石が松山に居る時分」とは明治28年(1895)4月9日~翌29年4月10日(退職日)までの1年。虚子が松山に帰郷したのは、漱石赴任間もない4月であるから、この話の時期も同月のことであろう。なお、日清戦争従軍記者として大陸に赴いていた子規が、帰途の船中で喀血したのは5月17日。日本上陸後は神戸病院(虚子が看病)、須磨保養院を経て、8月末に松山に帰郷。教員として松山にあった漱石の下宿(愚陀佛庵)に転がり込んで、以後漱石と52日間同居。子規が指導する地元の俳句会(松風会)には漱石も参加。子規・漱石29歳(数え年)、虚子22歳のことである。



# by bashomeeting | 2020-06-12 14:08 | Comments(0)

写真俳句と画賛

    雪・月・花―写真俳句論―

 雪明かりに心安らぎ、名月を愛で、道端の小さな花に目を留める。自然に対する、とりわけ、四季のうつろいに対する、日本人の豊かで繊細な感受性は、美術・文学などの秀逸な表現を生みだしてきました。五・七・五の言葉のなかにそれを封じ込めた俳句は、その典型的なひとつといえるでしょう。写真も、写し撮る一瞬に、現実の事象に対する作者の感性を封じ込める、という点でしばしば俳句に比されます。
 昭和10年の古都・松江を撮し出した福原信三もまた、写真俳句論を唱えたひとりです。今回は、大正期から昭和初期の日本を代表する写真家・福原信三作(松江風景)をはじめ、雪・月・花を謳う写真家たちの作品を中心に、彼らの自然への豊かな感性を感じ取っていただければ幸いです。

▶▶これは松江市の宍道湖の傍にある、島根県立美術館の「雪・月・花―写真俳句論―」と題する展示パネルの全文である。昨年の11月27日(水)に見学。「写真俳句」ということばに出逢うのは初めてだったから、受付の許可を得て撮影したものを書き出してみた。「写真も、写し撮る一瞬に、現実の事象に対する作者の感性を封じ込める、という点でしばしば俳句に比されます」という一節が興味深い。福原信三(1948没)は実業家(資生堂の創業者)で、写真黎明期に「写真芸術」の確立をめざした写真家とのこと。
 今年1月に芭蕉会議サイトがリニューアルされ、トップページに「巻頭写真&俳句」というコンテンツが生まれた。仲間の俳句を紹介するのが目的だが、その句に奥行きとか、物語を添えるために、Takumi Takahashi氏の写真に助けを求めている。連歌俳諧の付合(ツケアイ)や画賛の美学を踏まえた工夫だが、思いのほか好評である。その理由を考えるために「雪・月・花―写真俳句論―」が何らかの示唆を与えてくれることを期待している。


# by bashomeeting | 2020-06-08 16:37 | Comments(0)

   序

 たしなみ俳句会の五周年記念句集をお祝いして、「模倣のすすめ」を主意とする一文を贈ります。
 虚子は素十について「句に光がある。これは人としての光であらう」(『初鴉』序)とほめました。この「光」は「美」や「味わい」と同義ですが、「人としての」と絞り込まれると、作者の人格という色合いを強めます。俳句とは人間性とか品性の表出だというのです。
 では、味わい深い俳句はどうすれば生まれるのか。すぐれた人柄はどうすれば育つのか。虚子は「その人とその技巧から来てゐるものと思ふ」(同序)と続けて、「人(作者の心)」と「技巧(作者の言葉)」は不可分という立場に立ちます。つまり、心(内面)を養えば美しい言葉が生まれ、言葉(外面)を整えれば心は慰められるというのでしょう。
 素十がこうした教えに従順であったことは「私はたゞ虚子先生の教ふるところのみに従つて句を作つてきた。工夫を凝らすといつても、それは如何にして写生に忠実になり得るかといふことだけ」(『初鴉』素十自序)という一文に明らかです。この「写生に忠実に」なることを「写実」といいます。素十の「工夫」とは自分の句が「あるがまま」かどうかを確認することだったようです。「あるがまま」を見極め、受け入れることができれば、それは高潔の名に値するでしょう。
 従順である素十は、「従つて私の句はすべて大なり小なり虚子先生の句の模倣である」(同自序)といって憚りません。具体的には、素十の「甘草の芽のとびとびの一ならび」という句は、虚子の「一つ根に離れ浮く葉や春の水」という句の「模倣」で、この「虚子先生の句がなかつたなれば、決して生れて来なかったらう」(同自序)というのです。
 どこが「模倣」なのでしょう。なにを真似たのでしょう。虚子は「一つ根に」という句を「其後の句作」(『ホトトギス』大正2・5)という文章で、「濠の水を眺めてをるうちに、(中略)向うの方とこちらの方と大分離れた所に小さい水草の葉が二つ浮いてゐるのが、よく見ると一つの根から出た長い長い二本の茎の尖にあるのであつた」とし、その別物に見えた二つの葉の根が一つであった驚きと喜びを詠んだ句であると自解しています。素十はこの虚子の心(内面)を真似たのです。
 素十句の「甘草(正しくは萱草)」は宿根草(多年草)です。冬に枯れたかに見えて、根は土中を這い、早春のあちこちに明るく小さな芽を出す。その宿命を「一つ根に離れ浮く葉」と同じように、いとしく感じとったのです。このように、素十の「模倣」とは虚子の句を通して、心(内面)を養うことでした。「模倣」という言葉に、新しい光を当てたいと思う、今日このごろであります。
                                      谷地海紅

▶▶これは日立の、たしなみ俳句会5周年記念作品集『たしなみ』(2020.3.31、私家版)に寄せた序文。前稿「人としての光」(「第11回 芭蕉会議の集い」の講演録)に接続する文章である。よって、ここに転載し、諸賢の御批判を仰ぐことにした。

# by bashomeeting | 2020-06-02 17:03 | Comments(0)

 タイトルの「人としての光」は高浜虚子が門人高野素十という人物と、その句を褒めたことばで、『初鴉』(昭和21、菁柿堂)という句集の序文にある。この素十評を読んで、俳句を作るとはどのようなことかを考えたい。

 『初鴉』には虚子と素十の二つの序文がある。なぜか。素十は自序だけのつもりであったが、菁柿堂主人(豊島区西巣鴨)が独断で虚子に依頼したから。つまり、素十は出版されるまで、虚子先生の序文があることを知らなかった。(松井利彦編『俳句辞典 近代』昭52、桜楓社)
 そもそも素十は個人句集が嫌いで、出版は菁柿堂の熱心な勧めに節を折った結果である。よって、自分の句集なのに編集の一切は出版社任せ。その結果、四季分類の誤りや、誤字や句の重複まである。そんな姿勢だから、仮に虚子への序文依頼を事前に知っていたら、出版を拒んだかもしれない。このように、素十は世間の俳人の嗜好や常識から外れていた。
 虚子によれば、素十はよほど以前に句集が出ていてよい人物だった。しかし、良い句を作りたい一心で、文学のそれ以外の側面に関心はないから、句集がなかった。
 虚子によれば、まるで磁石が鉄を吸うように、自然が素十の胸に飛び込んでくるという。素十はそれを明快に切りとるから、ことばを飾る必要はなく、それでいて味わい深い。句に光があるとはこれで、人としての光であるという。素十に似た俳人に、『猿蓑』を編んだ凡兆がいるが、人としての光という点で、素十に及ばない。
 虚子によれば、この光というものを説明することはむずかしく、素十本人もわからないかも知れないが、その人と、その技巧から来ているという。つまり、俳句は人間の出来不出来によるが、それには技巧が大いに関係しているというのだ。
 これは俳句が修養の世界であるというのに等しい。修養は人格や技能をみがき、きたえることである。その具体的な回答は、虚子の序文を知らないはずの素十の序文に、まるで符節を合わせたかのように見える。師弟とはこのようなものか。以下がその全文である。要するに、自己表現とはすぐれたものを真似て、そこに自分を隠すという修養の積み重ねであった。古来、学ぶは真似るだという。模倣ということについて、考え直す機会にしたい。

     序
 私はたゞ虚子先生の教ふるところのみに従つて句を作つてきた。工夫を凝らすといつても、それは如何にして写生に忠実になり得るかといふことだけの工夫であつた。
 従つて私の句はすべて大なり小なり虚子先生の句の模倣であると思つてゐる。
   甘草の芽のとびとびの一ならび
 といふやうな句も
   一つ根に離れ浮く葉や春の水
 といふ虚子先生の句がなかつたなれば、決して生れて来なかったらうと思つてゐる。
        昭和廿二年五月九日          高 野 素 十

▶▶これは第11回芭蕉会議の集い(2020.1.19、パレスサイドビル9階 レストランアラスカ)における、「ことばの中にかくれる」という副題の講演要旨で、すでに芭蕉会議サイト「芭蕉会議の集い報告」に掲載されている。ただし、講演要旨では後半の素十序の部分は原文を提示するのみで、解説を怠っていた。今回、日立のたしなみ俳句会5周年記念作品集『たしなみ』(2010.3.31、私家版)に序を求められて、そこを「模倣のすすめ」と題して補足する機会を得たので、二者を接続させる目的でここに転載する。

# by bashomeeting | 2020-06-02 16:49 | Comments(0)

 作家の夢枕貘さんがまだ二十代のころ、ある編集者から「流行作家の椅子はいくつあるかご存じですか」ときかれた▼「知らない」と答えると「十五です。いつの時代も十五しかない。誰かが座れば誰かが落ちる。そのうちの一つに座ってみませんか」と持ちかけられた。「実は今、椅子が一つ空いているのです。ついしばらく前まで新田次郎という方が座っていた椅子です」という▼この話は、柴田錬三郎賞に輝いた夢枕さんの傑作山岳小説『神々の山嶺(いただき)』(集英社文庫)の「あとがき」にあるのだが、すごい口説き文句があったものだ▼新田さんが亡くなられた直後の話で夢枕さんはそれから十五年がかりで『神々の山嶺』を仕上げる。(下略)

▶▶これは「第2回 芭蕉会議の集い」(平19.6.17)で「山の裾野に暮らす」という話をした際に胸のうちにあった文章である。これを例にして、芭蕉会議を始めるのは「お山の大将」になるためでないということを話した気がする。
 話はかわるが、恩師から「世に出たいと思うならば、研究などやめることだ」といわれたことがある。ボクをたしなめるためではなく、先生が自分の姿勢を確かめるような口ぶりだった。ボクはまだ駆け出しの二十代だったが、今日まで、この教えを破ったことはない。頂上に用意されている椅子の数を数えて、掛け替えのない暮らしを粗末にはできないと考えたようだ。


# by bashomeeting | 2020-04-14 16:26 | Comments(0)

 Sさんから「ブログはまだお正月ですね」とからかわれた。とりあえず、「執筆姿勢、その他について、思案中なのです」と弁解した。
 句作と俳諧研究の双方で、「山の裾野」に暮らす」(「第2回芭蕉会議の集い」挨拶、平19.6.17)と決めて、「俳句を暮らしの杖にしたい人、学習を人生の糧にしたい人々にまじって、なろうことなら彼等の役に立ちたい」(『芭蕉会議の十年』序、平29.10.22)と書いた気持ちは色褪せていないが、教職から解放された昨年3月以降、気の張りにゆるみが出ている可能性はある。
 ネット上に芭蕉会議サイトを設営するなら、「ぜひブログも始めてください」と勧めたのは、俳人で芭蕉会議の最初の編集長Yさんである。運営を引き受けてくれたカルテモにその旨を話したら、あれよあれよという間に「海紅山房日誌」というブログが用意され、見ると「芭蕉会議、谷地海紅のブログです」という紹介もある。
 日記を公表するものらしい、という程度のブログ理解しかなかったボクは、早くもおじけづいて、「但し思索のみちすじを求めるために書き綴られるものであり、必ずしも事実の記録や公表を目的としたものではありません」と書き足した。
 そこに戻ってみようと思う。


# by bashomeeting | 2020-03-31 17:54 | Comments(0)

あけましておめでとうございます2020

 令和二年庚子 歳旦

階段の平積みの書もお元日  海 紅


# by bashomeeting | 2020-01-01 00:01 | Comments(0)

 【本日の話】台風19号を御見舞い申し上げます。唐突ですが、『ある愛の詩』( Love Story/1770)の「愛とは決して後悔しないこと」(Love means never having to say you're sorry)とは上手い翻訳ですね。『おくのほそ道』全昌寺の一節「一夜の隔て千里に同じ」について妄想しながら、そう思いました。さらに、蘇東坡の「人生に離別無くんば、誰か恩愛の重きを知らん」(「潁州にて初めて子由と別る」)という一節を思い出しました。さらに、蕪村の「得たきものは強いて得るがよし。見たきものは努めて見るがよし。又、重ねて見るべく、得(う)べき折もこそと等閑にすべからず。重ねて本意とぐることはきわめて難きものなり」(『新花摘』)を思い出しました。逢えるときには逢っておこうということであります。

▶▶性格として、自家広告めくことは苦手である。それで、今まで紹介したことはないが、実は長く朝日カルチャーセンター新宿の講師を頼まれ、俳諧や俳句の講座を担当している。いま、「『おくのほそ道』の想像力」というタイトルで、〈芭蕉さんも立派だが、芭蕉が踏まえている古典が、いかにボクらの生涯にとって大切な遺産であるか〉という話をしている。毎回B4判で2枚のレジュメを用意して臨み、冒頭に「本日の話」という要旨を掲げている。思うところあって、ここに先月のそれを転載した。この日は〈全昌寺の章に「一夜の隔て千里に同じ」の心を読む〉というテーマであった。
 個人的な事柄で恐縮だが、実は10月3日に大切な友人を亡くした。ただし、読むべき人が読めば、ボクの「思うところ」は想像してもらえると信じて、これ以上の説明は控えたい。


    小石川後楽園小集
  石蕗に問ふ草葉の陰といふは何処    海紅
  石蕗曰く草葉の陰といふは此処     同
  みそなはせ小春に集ふ二十人      同



# by bashomeeting | 2019-11-18 11:24 | Comments(0)

この人の一句◆河瀬俊彦句集『箱眼鏡』ふらんす堂刊

どの船も錨をおろす大旦
まだ年の明けぬ国より初電話
風光る犬のリードの伸び縮み
虎杖を折ればわらべの頃の音
草餅を焼けば母の香父の色
初夏の風を両手に一輪車
名刹のあるじ顔して蟇
冗談も本音の一部ところてん
みんなして濡れて喜ぶ夕立かな
あめんぼの水に弾力ありにけり
「遅れます」とサンタクロースより電話
どろばうも医者もゐぬ島冬ぬくし
切株のここが居場所や冬日向
木の葉散る終の住処探すかに
東京に迷ひ込んだる雪女
煖炉燃ゆ壁に大きな鹿の角

▶▶河瀬俊彦句集『箱眼鏡』。川口襄序。小山徳夫跋。あとがきに、退職後に所沢市で『遠嶺』主催の初心者講座があり、それを受講したのが俳句を始めたきっかけと記す。その後『遠嶺』入会(主宰小澤克巳逝去により終刊)。その後『爽樹』創刊に参加して今日に至る。海紅とは面識はないが、「わくわく題詠鳩の会」(芭蕉会議)に投句されていて、作品は存じ上げていた。帯に自選十句があるが、「みんなして濡れて喜ぶ夕立かな」の一句が上記に紹介した海紅推薦句と重なる。俳人協会会員。ふらんす堂、令和元年(2019)10月刊。


# by bashomeeting | 2019-11-14 18:04 | Comments(0)

この人の一句◆片山由美子句集『飛英』角川書店刊

置けばもう手に取ることのなき木の実
花の名を呪文のごとく花野ゆく
眠らねば明日とはならず遠蛙
犬小屋の外で寝る犬夏の月
折りとれば芒を風の離れゆく
山茶花や降りることなき駅となり
門灯の照らしてゐたる春の泥
甘酒や雨の中なる旧街道
綿虫やひとりになれば見ゆるもの
しやぼん玉触れたきものに触れて割れ
抱かれて子猫のかたち定まらず
石拾ひゆく七月の外ヶ浜

▶▶片山由美子句集『飛英』。書名はヒエイと読む(たぶん)。群青のカバーに花片を散らしてあるから、飛花・落花に同じと思われるが、用例を知らず。しかし通読して、その含意は十分に汲みとった。前著『香雨』をいただいてから七年とあり、過ぎゆく時の速さに驚く。あとがきに、鷹羽狩行主宰誌『狩』終刊。その後継誌として『香雨』が創刊され、主宰として活躍の由が記される。あちこちで平成から令和への転生が行われている。帯に自選十二句を抽出して掲げる。それに倣ってボクの好きな句を十二句あげて遊んでみた。角川書店、令和元年(2019)9月刊。


# by bashomeeting | 2019-10-03 09:15 | Comments(0)

この人の一句◆寺澤 始 句集『夜汽車』ふらんす堂刊

風鈴の一つ鳴りたる帰郷かな
屠蘇に酔ふ千里の果ての父母の家
乳吸ひて眠りて終戦記念の日
吾子二人胸に背中に一茶の忌
蜆汁母に詫びたきことばかり
青嵐耳に入らざる言の葉よ
抗鬱剤二錠服して薄暑なる
母とゐてケーキの苺崩したる
凧揚げの父の目元の変はらざる
聖書読む吾子と毛布にくるまりて
春泥や墓の数だけ恋ありし
母の日の妻も母なりケーキ焼く
啓蟄やサラリーマンの白き襟
子の尻を石に乾かす炎暑かな
顔を見て出席を取る震災忌
秋の日や汽車の車輪の匂ひたる
乳母車を陽の差す方へ七五三
志願理由書書き了へし子と蜜柑剥く
名刺交はす女教師の指の胼
作文の書けぬ子残れ小六月

▶▶寺澤始句集『夜汽車』。依田善朗跋。末尾の略歴に「東洋大学文学部国文学科中世近世文学研究会句会参加。谷地海紅より俳句の指導を受ける」とあり、「あとがき」に、(この研究会の)「先生のゼミではよく句会や連句会が行われた」ともある。世間に文学研究者や俳人・歌人は多いが、文学を必要としている人にはめったにお目にかかれない。そんな中で、寺澤始氏は学生時代から〈文学を必要としている〉人であった。書名の『夜汽車』は人生を紡ぐ東京・静岡・熊本を往き来した、長距離寝台特急(ブルートレイン)にちなむようだが、この書名もまことに私のイメージ通りで、ひとり夜行列車に人生を乗せてゆく、志ある男が髣髴とする。すなわち、大学卒業後は国語教員の夢を叶えて熊本に赴任。そこで、首藤基澄に師事して「火神」「幹の会」で研鑽し、「未来図」に入会。その後、横須賀の学校に転じて今日に至るが、俳句はその前後の十年あまりを中断。再開は横浜の超結社句会「熱刀句乱舞」との出逢いであるという。平成26年に未来図新人賞受賞。帯に自選12句を示すが、「顔を見て出席を取る震災忌」「作文の書けぬ子残れ小六月」の二句が上記の海紅共鳴句と重なる。依田善朗氏が「跋」に掲げる16句とは「顔を見て出席を取る震災忌」「乳吸ひて眠りて終戦記念の日」「吾子二人胸に背中に一茶の忌」「志願理由書書き了へし子と蜜柑剥く」「作文の書けぬ子残れ小六月」の5句が海紅の推薦句と重なる。先に句集『卒業』(ふらんす堂)を持つ寺澤佐和子は伴侶。俳人協会会員。ふらんす堂、平成31年8月刊。
# by bashomeeting | 2019-08-26 17:48 | Comments(0)

 今年の終戦記念日は台風10号に見舞われている。

 台風で思い出すひとつに納豆売り体験がある。昭和34年に伊勢湾台風があって、5,000人を超える人が亡くなり、負傷者も4,000人近くに及んだ。ボクは北海道の空知川のほとりの小学校で生徒会の会長をしていて、顧問のK先生から「生徒会の役員全員で納豆売りをして、その収益を被災地に寄付してはどうか」という提案を受けた。通学前の早朝に、豆腐屋さんで納豆を仕入れ、「納豆はいりませんか」と家々を廻った。どのくらい続けたか、どれほどの収益があったかは忘れたが、懐かしい記憶である。

▶▶タイトルの歌の初出は「おほらかに地球は蒼穹(そら)をめぐれるを人ら境して何か争ふ(『憂の花』)」である。


# by bashomeeting | 2019-08-15 17:07 | Comments(0)

 たしなみ句会の第四句集を編むという話をうかがい喜んでいます。それに合わせて、少し前に鹿鳴さんが問題提起していた「本意」について私見を述べてみます。
 「本意」は辞書をひくと「本来あるべきさま」と解説されています。和歌連歌俳諧の歴史には掛詞や縁語などのレトリックがまつわりついて、簡単には説明できません。しかし、掛詞や縁語に頼らなくなる十七世紀後半、つまり芭蕉晩年から現代の俳諧(俳句)においては、「本意」とは季題(季語)が持つイメージと考えてよい。
 「主観」、つまり「見えているもの」や「感じていること」は人によって異なる場合もあるから、「本意」をつかむには徹底した観察が不可欠です。そして、「桜って、そういうものだよネ」といえるとき、それが「桜の本意」ということでしょう。ただし、それをそのまま句にしても、「説明に過ぎない」と否定されてしまいます。みんなが了解していることは自明の事柄だから省略する、表現しないというのです。いうのは簡単ですが、行うのはむずかしい。でも、むずかしいから愉しいともいえます。
 日々、御仕合わせに。

▶▶これは『たしなみ』(たしなみ俳句会4周年記念句集、平31年3月31日鈴木勝也跋)に求められた「序にかえて」の全文です。ただし、結晶度を高めるために多少の加筆修正を施しています。断捨離の日々が続いていますので、散逸を恐れて、しばらくここに残します。
# by bashomeeting | 2019-04-04 16:33 | Comments(0)

 いろいろあって文学を仕事にしてしまいました。いろいろあって古典文学を専攻してしまいました。企業を退職して、大学の夜間部に入って、ありがたかった講義は天文学と哲学でした。二つとも、人間が死んでゆくのは致し方がないのだと教えてくれました。
 守備範囲の古典では、西行法師や芭蕉庵桃青に関心を持ちました。二人の分野は和歌と俳諧と異なりますが、俳諧もつまるところ和歌の一分野です。芭蕉が生まれる前に和歌の歴史は九〇〇年以上あり、俳諧は芭蕉が生まれて以後に限っても四〇〇年に届こうという歴史を刻んでいます。だから、和歌とは何か、俳諧とは何かという根源的な問いの答えは色々あるでしょうが、日本人が一貫して向き合ってきたものは「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声」(『古今集』仮名序)であります。
 すなわち、古代ギリシャのヘラクレイトスが説いた万物流転、あるいは有為転変・生々流転・飛花落葉といっても同じでしょう。西行や芭蕉の生涯はそこに無常を感じとることで、限りある時間をよりよく生きることでした。俳諧の季題はその無常を確かめる何よりの教材なのです。無常を確かめることが日々をよく生きる最善の道だと思うのです。わたしは俳句をこんなふうに大切に思っています。

▶▶これは『たしなみ』(たしなみ俳句会3周年記念句集、平30年3月31日杉本勝人跋)に求められた「たしなみ句集Ⅲに寄せて」の全文です。西行の「心の誠」、芭蕉の「軽み」、虚子の「花鳥諷詠」に貫道するもの(哲学)の一環とお考えいただければ幸いです。断捨離の日々が続いていますので、散逸を恐れて、しばらくここに残します。


# by bashomeeting | 2019-04-04 15:51 | Comments(0)

 たしなみ俳句会の二周年と、その選集の完成を御祝い申し上げます。
 すでにお話しさせていただいたことですが、私の教師生活は常磐線沿線の高校教師で始まりました。この地域には私の恩師村松紅花と信頼関係にある俳人がたくさん住んでいて、「紅花先生の指示である」といって、赴任後の私をあちこちの句会に誘ってくださいました。私の俳句は茨城県の俳人に育ててもらったといってよいのです。
 そこで教わったことのひとつに「泥吐き」という言葉があります。鮒・鯉・鯰・鰌、そして貝類などを料理する際の下ごしらえの一種で、魚介類が体内にため込んだ泥や汚物を水中に排出させることを意味します。句作をこの泥吐きに喩えて、よい句はトコトン泥を吐いたあとで、ふうっと口をついて出てくるものだというのです。
 ともすれば、泣いたり笑ったりする日常の感情の起伏を表現するものと、俳句を考えがちですが、そんなものは松尾芭蕉が否定した私意であって、そういうものを吐き出してしまって、ああ、もう言いたいことなど、残っていないという段階に入って、はじめて私情を離れた心底を言葉にできる。それが本物の俳句だ。季題を通して見る天然自然は、魚介類の泥吐きにおける水に等しいのだ。季題を学ばねばならない、あるがままの世界を凝視せねばなるまい。私は「泥吐き」をそんなふうに理解したのでした。そして、今もその気持ちに変わりはありません。
 繰り返しておきます。事実を〈美しく〉切り取り、言い取って、今生きていることを喜びましょう。たしなみ句会発足二周年まことにおめでとうございます。日々の御仕合わせをお祈りしています。
                           平成二十九年年二月十四日の月下にしるす

▶▶これは『たしなみ俳句会』(2周年記念句集、平29年2月刊)に求められた「たしなみ句集Ⅱに寄せて」(平29.2.14稿)の全文です。断捨離の日々の散逸を恐れて、しばらくここに残します。


# by bashomeeting | 2019-04-04 12:30 | Comments(0)

 昨年、NHKのドキュメンタリー「ファミリーヒストリー」の「中山エミリ、 ルーツは地中海・マルタ島 日本への帰化」という番組を見た。英国人ロジャー・ジュリアス・イングロット氏の生涯を追跡するもので、俳句仲間のM氏一族が女優中山エミリの親戚にあたり、御自身も番組でお話しすると聞いたからだ。
 それでしみじみ思ったことは、誰でも自分のルーツを辿ると、そこに大きな歴史があらわれるということであった。俳壇のような世界からみれば、たしなみ句会はちっぽけきわまりないが、そこで句作する人の人生は芭蕉・蕪村・一茶や子規のそれに少しもひけをとらない。ボクは本気でそう考えている。
 たしなみ句会は、瓢箪から駒のように生まれた。生涯学習センターの永山邦子さんが初めに講師の御願いをしたのは聖心女子大学に勤める友人F氏であった。ただ永山さんの意図は講座の終わりには俳句を嗜む気持ちがうまれて、それが日立の人々の日常の支えになることにあったため、友人がボクを紹介してあの講座が成立した。この人生の選択が正しいかどうかはわからないが、ボクの四十年は研究と句作を両立させるというものであったからだ。出かけてみると、そこに古い俳句仲間の勝人さんや君江さんがいた。なんだか、偶然とは思えないものを感じたのである。
 一年間にわたり申し上げてきたことは。俳句は事実を〈美しく〉切り取り、言い取って、今生きていることを喜ぶという、とても身体によい詩歌ということである。その思いが届いて、一周年という時間を刻んだことは、いつか誰かにとって、それはボクらの次世代かもしれないし、もっと先かもしれないが、捨てがたい歴史になることをボクは信じて疑わない。


▶▶これは『たしなみ俳句会』(1周年記念句集、平28年1月24日杉本勝人跋)に求められた「たしなみ句集に寄せて」(平29.1.22稿)の全文です。断捨離の日々に入ったゆえ、散逸を恐れて、しばらくここに残します。


# by bashomeeting | 2019-04-04 12:05 | Comments(0)

 3月31日を以て退職する。教職から解放される。
 高等学校を卒業する前後から、入学式や卒業式、歓迎会や送別会というたぐいが苦手になった。ひとつの号令で、何百人、何千人が立ったり座ったり、唄ったりする時空を異様に思うようになった。ましてや、セレモニーの中心に据えられるのは恥ずかしくて、やりきれなくなった。
 しかし、組織のなかで生きてきた以上、こうした質を理由に礼儀を欠いてはいけない。そう諭す人もいて、挨拶を7回こなし、花束を3回もらった。別に大学院にゆかりの先輩後輩が集って文学散歩を兼ねた送別会があり、さらに30年以上続けた古典講読の会も閉じた。また、芭蕉会議が雪残る銀山温泉で1泊吟行をもてなしてくれた。
 旧臘、こうした事態を避けられないとみてN氏にすがり、『九十九句』という小さな句集を編んで、300部刷った。ささやかなお礼のつもりである。松尾芭蕉を講じている朝日カルチャーセンター(新宿)にも運んで、〈300人も友だちはいないので〉といって、聴講してくれている人々にも差し上げた。
 受講者のなかに、俳諧(俳句・連句)を暮らしの杖にしているSさんがいて、ボクの句集の中に〈連句で付句にしたい句がたくさんあって、記念に遊んでみました〉といって、次のような三つ物二種を贈ってくれた。
 前置きすれば、「春雷に」の脇句「足湯してゐる女九人」は拙句「足湯して女九人春浅し」を短句に、第三の「藤の香を風立ちてより追いかけて」は拙句「風立ちてより藤の香は風を追ひ」を「テ」留めに仕立て直したものである。また、「ものの芽の」の第三「古扇にもの言はぬこと決めてゐて」は拙句「もの言はぬことに決めたる古扇」を「テ」留めに仕立て直したものである。こんな遊びは誰に気兼ねもなくて楽しそうである。
 ちなみに、『九十九句』はまだたくさん残っている。

  お祝い 三つ物
   春雷に
春雷に明るくなりしベンチかな   海紅
足湯してゐる女九人        同
藤の香を風立ちてより追いかけて  同

   ものの芽の
ものの芽の風にとかれて明るしや  海紅
「あずさ二号」へ急ぐ花時     昭子
古扇にもの言はぬこと決めてゐて  海紅


# by bashomeeting | 2019-03-29 18:25 | Comments(0)

芭蕉会議、谷地海紅のブログです。但し思索のみちすじを求めるために書き綴られるものであり、必ずしも事実の記録や公表を目的としたものではありません。
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