講座:奥の細道―古人とともに生きるⅣ
2009年 07月 19日
詳細説明では、著名な西行ゆかりの章段は、いつでもどんな講師からでも話を聞くことができると考えて、この日は源平の合戦がらみの武士を追いかけた。すなわち、屋島の合戦で源氏方の弓の名手として知られた黒羽の那須与一宗高。平泉の藤原秀衡と、その郎党で飯坂丸山に居を構える佐藤荘司元治。その息子で義経に従って死んでいった継信・忠信とその一族。父秀衡の言を守って最後まで義経を守り、塩竈神社の宝塔に名を刻む和泉三郎忠衡。秀衡の次男で、父の跡を継ぎながら、鎌倉の源頼朝に屈して義経を討った泰衡。義経に嫁した久我時忠の娘に付き従って義経と行動を共にし、『義経記』に「兼房が最期の事」という哀話をとどめる老武者兼房。源義朝の異母弟で木曽義仲の父義賢。義賢が殺される現場からその子駒王丸(二歳の義仲)を救出して養育し、信濃の中原兼遠を頼った斎藤実盛。実盛は源為義・義朝に仕えたが、その武勇を買われて、最後は平家に仕えたこと。そのため、実盛の最期の戦が、かつて一命を救った木曽義仲追討になったこと。実盛は義仲軍に情けを掛けられることを恥とし、大将平宗盛から錦の直垂着用の許しをもらい、老武者と侮られぬように白髪を黒く染め、その覚悟通りに義仲家臣手塚太郎光盛に討たせて死んだこと。首実検で自分の恩人と知った義仲は手厚く回向したこと。小松の多太神社に残る実盛の兜や錦の鎧直垂の切れ端は、その昔に実盛が源氏に属していた際に、源義朝からの下賜であると伝えられていることなどについて話した。文芸は物語である。だから、事実を扱う歴史とは別物であると結んだ。
歴史が事実を重んじるのに対し、文学が伝承を大切にする理由は、それがしばしば事実以上に真実を語るからである。あやふやな記憶を頼りに、講談のような話し方になったから、事実という点では誤認があったかもしれないが、今後受講者が一人で読むために手引きとなるよう努力した誠意は伝わったのではなかろうか。
終了後、芭蕉会議で親しくしていただいているM御夫妻が、遅めの夕食に誘ってくれた。車で小名木川沿いを大門通り(例の「親不孝通り」か)まで進み、右折して葛西橋通りと交差するあたりで下車。夜分ゆえ不確かだが、あの堀は仙台堀川であったろうか。食事はワインのおいしいイタリアンであったが、心地よさに店の名前を覚える余裕がなかった。