高野素十「づかづかと来て踊子にささやける」の初出
2009年 12月 01日
〔「づかづかと来て踊子にささやける」の初出〕
近 郊 の こ と 高 野 素 十
この夏は吉右衞門一座が旅興行にきたのであるが、その話は誰か書くといふ話であるから、一つ盆踊を見た話でもしようか。
盆踊といへば龜田、といふ位に龜田の盆踊は有名なのであるが、あれはどうも困つたもので、少なからず邪道であると思ふ。假装もなる程結構ではあるが、馬を引つぱつた鹽原多助だとか、熊を胸にぶら下げた金時だとか、甚しいのはラヂオになつたりしたのだとかいふのがぞくぞく出て來ては盆踊の興を殺ぐこと夥しいものがある。
盆踊はやはり揃つた笠、揃つた衣裳、揃つた手拍子足拍子といふものがなければ面白くないと思ふ。
そこで話は鳥屋野村の盆踊のことになるのであるが、この村には順徳天皇の御遺跡や僧親鸞の遺跡がそこゝこにあり、こゝの踊といふのも親鸞聖人の教へたものとも、或は順徳天皇のおつきの女官達が大層窮迫されて食を求めた時の踊だとも傳はつてをるさうで、ロツカイ節といふのはどう書くのか、六階とでも書くか七ツの踊の手があり、鳥屋野、あねさ、切り込み、弓取り、たまへ、藤の花等のそれぞれ名前がある。盆踊りとしては相當こみ入つたものであり、これ等の踊の名前からも何か由緒がありさうな氣がする。
この中の「たまへ」といふのは前に云つた女官達が「たまへ」「たまへ」と云つて踊つた、即ち食を乞ふた踊であつて、「呉れろ」「呉れろ」と云ふことで、あの手をしきりに出して踊るのがそれだと僕の側にをつた婆さんが叮嚀に教へてくれたのであつた。
見ていて誠にもの静かな、雅びた、寧ろもの足りない位猥雑味のないさびしいものであつたが、この新潟といふやうな品のない町のすぐそばにかういふ踊が今に保存されてあつたといふことは誠に珍らしいことと云はねばなるまい。
尤も例の僕の側の婆さんの説明によると、この鳥屋野村も昔は鬼のやうな人達が住んでをつて親鸞聖人にも順徳天皇にも一向に御奉仕などはせなかつたのであるが、次第に親鸞聖人の教化によつて、即ち思想善導によつて今のやうな立派な村人達になつたといふ話であつた。
その昔の面影は然し踊を見物に行つた僕達に寄付金を求めて驚かしたことに一寸殘つてをるやうである。
すいつちよの鳴く葎ある踊かな
踊笠かむりて肩の聳えたり
蝉なかす子のあちこちす踊かな
蝉がとぶ踊櫓の提灯に
たえずとぶ踊櫓の灯取蟲
眞菰もて巻きし手摺や音頭取る
づかづかと來て踊子にさゝやきぬ
僕の前に孫をつれて跼(しやが)んで見てをつた婆さんが、もう歸り支度なのであらう、持つてきてをつた提灯に灯をつけたのだが、どうしたはづみかに消えてしまつた。さうするとお婆さん靜かに跼んだまゝ、自分のすぐそばにさつき捨てたマツチの棒がまだ燃えてをるのを見て之を拾つて再び提灯に灯をともした。が、その時はもうマツチの棒は殆んど燃えつきて指先に火がついたと思ふ位であつて、隨分熱かつたのではないかと思つたがお婆さんは實に悠々たるものであつた。そこでこのお婆さんは灯の入つた提灯を下げて立上るのかと思つて見てをるとさうではなく、やはり跼んだまゝで、今捨てたマツチの燃えさしが眞暗な土の上に光つてをるのを指さきで叮嚀にすりつぶして、それから尚も四邊を見て安心したやうに立上つたのであつた。
かういふ動作は、このお婆さんにして見れば何十年間か毎日毎日繰り返してをつた日常のことなのであらうが、このマツチ一本をも大切にし、小さい燃えさしの火も粗末に扱はぬといふごく些細の動作が、やがて鳥屋野村の人々の古いつゝましやかな生活全體を見せられたやうで、大へん愉快であつた。
尚このお婆さんは用心の雨傘を携へてをつた。
踊の輪ひろくて人の數さびし
この村の早く果てたる踊かな
― 俳誌『まはぎ』昭和十一年九月号所載 ―
注・フォントの都合上、「く」を長大化した踊字は用いず、当該文字を繰り返した。また原文にあるルビは( )内に入れて本文に繰り込んだ。