意味を超える◆詩歌の魅力
2010年 01月 18日
臘梅をそれと認識した最初は井本農一先生のお宅の庭である。正月二日は恒例になっている年賀の日で、鷺宮のお宅には全国から門下があつまって新春を寿いだ。臘梅も年に一度の約束のように咲いていた。先生がぽつりと臘梅にまつわる思い出をされたこともある。だから臘梅といえば、すぐ鷺宮の早春の庭がうかぶ。わが草庵に臘梅をほしく思ったのは、こうした懐旧の情によるのであろう。
言うまでもなく、この懐旧の情はボク一人のもので、臘梅それ自身とは関係がない。臘梅は四季との連関において、臘梅としての意味をまっとうしているだけであって、見つめているボクが何ゆえに目を潤ませているかなど知ったことではないだろう。ボクの懐旧は臘梅にふれてわき起こるにはちがいないが、臘梅自身の生活や意味を超えてしまっているのだ。そんなわけで、このところボクと同じように臘梅をながめている家族とも、ボクの懐旧の情はかかわらない。彼らは彼らなりに、この臘梅との付き合いを重ねて、彼ら自身の情景を脳裏に刻み込んでいるだろう。
昨年の七月にこんなことがあった。句会の前説にミニレクチャーを頼まれて、「心は焼けない」という題で話をした。これは稲澤サダ子句集『月日ある夢』にある作者自身の言葉である。
講話のむすびに、この句集から抄出した数十句を示して、参加者に好きな句を選んでもらい、それぞれ感想を述べてもらった。Miyukiさんの番が来たが、彼女は〈一日をただ…〉と気に入った句を読み始めて言葉をつまらせ、そのあとが出ない。それは、
一日をただ玫瑰とありし旅
という句だが、周囲の友人の中には「玫瑰」の読み方をドワスレしたのかもしれないと気づかい、〈ハマナスよね〉とささやくように教える者もあった。むろんMiyukiさんは玫瑰の読み方を忘れたのではない。しばらく気持ちを整理するようにして、彼女は言った。
……私は北海道に育ちましてネ、ハマナスといえばオホーツクに続く砂浜の記憶です。子ども心に真っ赤に群生する姿は不気味で、その色のままに熟した実のかたまりもとても怖く恐ろしいものでした。今でもその気持ちにかわりはありません。
この感想は、作品の表現の一部が、全体の意味を超えて、読み手の目に映るもの、その鼻や口や耳に訴えかけてくる記憶を呼び覚ましたものである。だから、作品の解釈としては不十分であろう。だが、詩歌の魅力は、実は意味を超えた、こんな刺激が支えていることも少なくない。けっして、過不足なく作品を解釈したり、作者の人生を解き明かしたりする趣味にのみあるわけではない。
臘梅の清貧といふ固さかな 海 紅