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闇を見よとや1◆風羅坊とは心のこと

  百の骨と九つの穴からできている私の身体の中に、仮に風羅坊と名づけている得体の知れない「モノ」が棲みついている。風羅坊と名づけた理由は、この「モノ」が風に吹かれる薄絹のように感じやすく、傷つきやすいからだ。風羅坊は俳諧が好きで、それで私は一生を俳諧で過ごすことになった。しかし、嫌気がさしてやめようと思ったり、逆に人に勝ち誇ろうとしたり、胸中穏やかだったことはない。それで世間並みの職業につこうとしたり、いっそ仏法を学んで出家しようと思ったことさえあったが、いずれも風羅坊に妨害されて駄目になり、結局は世間で役に立つ才芸一つ身につかず、風羅坊の好むままに俳諧の道を歩いてきた。だが、西行の和歌、宗祇の連歌、雪舟の絵、利休の茶と、世界はそれぞれ異なっても、その根底を支えている力は風羅坊と同じ「モノ」である。それに加えて、これらの文芸や技芸は天地自然に従順で、四季の移り変わりを友とすることで共通する。だから、花を見れば「モノ」も花に感じ入り、月を思えば「モノ」も月に魅せられるのだ。「モノ」に映る姿が美しくなければ野蛮人と同じである。つまり、「心」が美しくなければ鳥や獣と同じである。だから、野蛮人や鳥獣の境地を離れて、天然自然の推移に従順になり、その原点に立ち戻れとみずから言い聞かせるのである。

〔笈の小文〕 松尾芭蕉の紀行文。貞享四年(一六八七)八月に、鹿島に隠栖中の仏頂和尚を訪ねる旅(『鹿島詣』)をした二ヶ月後に、上方に向けて旅立った際の紀行。貞享四年(一六八七)十月二十五日から同五年四月二十三日に至る。ただし、芭蕉自身が完成させたものではなく、芭蕉の残した断片を門人乙州が集めて編集したもの。尾張・三河・伊賀・伊勢・大和・紀伊を経て須磨・明石に及ぶ。

〔風羅坊〕 『笈の小文』冒頭に掲げる芭蕉の芸道観。本文は以下の通り。

 百骸九竅の中に物有。かりに名付て風羅坊といふ。誠にうすものゝかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好こと久し。終に生涯のはかりごとゝなす。ある時は倦で放擲せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたゝかふ(う)て、是が為に身安からず。しばらく身を立む事をねがへども、これが為にさへられ、暫ク学で愚を暁ン事をおもへども、これが為に破られ、つゐ(ひ)に無能無芸にして只此一筋に繋る。西行の和哥における、宗祇の連哥における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。 (『笈の小文』宝暦六年刊)

by bashomeeting | 2010-01-23 20:39 | Comments(0)

芭蕉会議、谷地海紅のブログです。但し思索のみちすじを求めるために書き綴られるものであり、必ずしも事実の記録や公表を目的としたものではありません。


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