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闇を見よとや3◆古池の風景

     古池の風景                  谷 地 快 一

 古池論争が再燃している。蕉風開眼、つまり松尾芭蕉が独自の作風を悟った句と喧伝される「古池や蛙飛こむ水のおと」(『蛙合』)という句をめぐる新解釈が世間を賑わせているのだ。たくさんの芭蕉句に感銘しながら、この句ばかりがいつまでも謎めいて問題視されるのは不可解だが、論者はそれぞれ明晰な論理と想像力を駆使しているから、その論争に異議を唱えるのは容易ではない。そんなときは創作の現場に戻るに限る。

    一番
     左                 芭 蕉
  古 池 や 蛙 飛 こ む 水 の お と
     右                 仙 化
  い た い け に 蝦(かはづ) つ く ば ふ 浮 葉 哉

 貞享三年(一六八六)『蛙合』の巻頭にこうある。「古池や」の句は古池のよどみに飛びこむ蛙のかそけき音に閑寂を聞き、「いたいけに」の句は作者の心情を蓮の浮葉に揺れてうずくまる小さな蛙に投影させて、両者に優劣がない。それだけである。それだけで十分にあわれがある。なお贅言をゆるされるなら、蛙は蓮の浮葉から飛びこみ、いたいけな蛙を乗せる蓮の浮葉は古池の水面に揺れているという蛇足を加えておこう。
 『蛙合』は句合(くあわせ)、つまり歌合に倣って二句を左右に番えて優劣を競う俳書だが、俳諧の第一の目的は相互親和にあるから、勝敗は二の次である。その心は『古今和歌集』仮名序を踏まえた「此ふたかはづを何となく設たるに、四となり六と成て一巻にみちぬ。かみにたち、下におくの品(しな)、をのをのあらそふ事なかるべし」という判詞(はんし)、つまり優劣を説く言葉にも明らかで、本書の目的は句合という趣向を借りて全二十組、すなわち四十句によって、和歌伝統の美学を脱した蛙の実相を活写する試みといってよい。
 この場合の和歌伝統の美学とは、山城(京都府綴喜郡)の清流である井手の玉川を舞台に「かはづ鳴く井手の山吹散りにけり花のさかりにあはましものを」(不知・古今・春)に代表される河鹿と山吹との取り合わせのはなやさかさである。そこから解放されること、すなわち前時代である天和期(一六八一~八四)の流行、要するに漢詩文の教養や荘子的思想を、自然の直感的認識によって形象化することが貞享期(一六八四~八七)俳壇の趣味であり、当時の芭蕉一派が求める風流であった。だから、芭蕉が「蛙飛びこむ水の音」という中七以下を得た際に、其角が提案した「山吹や」という上五が採用されなかったのは至極当然といってよい。井手の玉川という流れの早い渓流では「蛙飛びこむ水の音」も聞こえず、波紋を生ずることもないだろう。寛政十一年(一七九九)に尾張の暁台が編んだ『幽蘭集』(芭蕉連句集)は、

  古 池 や か は づ 飛 こ む 水 の 音     はせを
    芦 の わ か 葉 に か ゝ る 蜘 の巣     其角

という師弟の付合(つけあい)を収載するが、其角の脇句は「山吹や」を提案したときと打って変わって、前句が発見した静謐さを裏打ちする春景を添えてみごとである。山吹や井手の玉川では、芦の若葉や蜘蛛の巣は想起されなかったであろう。
 もし「古池や」の句の平明さが蕉風開眼理解を妨げているとすれば、わたくしどもは天和期以前の理知的な俳諧という故轍を、知らないうちに踏み直しているのかもしれない。
               ―『東洋通信』第46巻9号(2009.12.1)より転載―

【附記】
1,左右映発という句合のおもしろさから、芭蕉の句の蛙を右句の浮葉から飛びこませるという一景を趣向したが、むろん浮葉でなければならぬ理屈はない。創造(create)された蛙にもかかわらず、飛びこむ場所はどこかという議論にかまけて、この時期の芭蕉がとらえはじめた「閑寂」という拠りどころを見失われるのは不本意なので、ここに附記する。
2,文中の判詞「をのをの」の原文は踊字であるが、横書きの見ばえはよくないので、例によって改めている。
by bashomeeting | 2010-02-06 17:14 | Comments(0)

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