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正誤◆二人の東皐

 佐久間柳居は蕉風復興期の重要な俳人の一人である。彼は俳諧を美濃派の系譜に学んで、〈年比我愛せる枕あり。いわゆる『冬の日』『春の日』『ひさご』『あら野』『炭俵』及び前後の『猿蓑』、この七部の書合せて十二冊〉(『高鼾』序、享保19刊)と書き、『俳諧七部集』(宝暦7ころ刊)出版のはずみとなったことで知られる。
 
 芭蕉五十回忌の前年にあたる寛保二年(一七四二)、柳居は晩春から夏にかけて東北へ長期の行脚を敢行した。日光・那須野から象潟へと転じ、酒田から鶴岡に戻って羽黒山に登り、さらに松島・塩竈に遊ぶという行路であった。同行は秋瓜と東皐という二人の俳人で、従者一人を伴っていた。
 
 楠元六男著『俳諧史のかなめ 佐久間柳居』(新典社)によると、この同行の一人である東皐は「塩町播磨屋長兵衛」であるという。「塩町」は江戸は四谷の塩町であろうか。「播磨屋」とはどんな商いの屋号であろうか。
 
 東皐ですぐ思い浮かぶのは岩手(東磐井郡藤沢町)の高橋東皐〔寳暦二年(一七五二)~文政二年(一八一九)〕である。この東皐は実は芭蕉会議の菅原宏通氏の奥方の先祖である。昨日の芭蕉会議で、その菅原氏が井上隆明著『東北・北海道俳諧史の研究』(新典社)の264頁に誤りがあるという。
 
 すなわち、「寛保2 江戸本所の柳居(麦阿)が吐花、東皐を伴い松島を経て、四月十九日庄内へ。五月象潟にも赴く。水戸の秋瓜、岩手東磐井郡藤沢の東皐が従う(柳居発句集・柳居遊杖集・綿屋文庫の三景集)」という解説の東皐は先祖の東皐とは別人。楠元氏の考察が正しいという。宝暦二年(一七五二)生まれの高橋東皐が、寛保二年(一七四二)の旅に出られるはずがないという。その通りである。

  研究書の中に眠るこうした誤謬はなかなか訂正する機会がない。だから、忘れないうちに発表しておくとよいと言うと、菅原氏は私に訂正しておいてくれという。それで、備忘のために記す。
by bashomeeting | 2010-04-11 17:35 | Comments(0)

芭蕉会議の谷地海紅(快一)のブログです。但し思索のみちすじを求めるために書き綴られるものであり、必ずしも事実の記録や公表を目的としたものではありません。


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