深悼◆田痴さんの葬送で思ったこと―自然観と信仰―
2010年 05月 01日
聖イグナチオ教会は、上智大学に隣接するカトリック教会である。教会での葬送には何度か参列したが、このたびは、後部席でおそるおそる手を合わせるわけにゆかない。それでミサの始まる三十分前には着くようにでかけた。
カトリックはミサも告別式もきわめてシンプルである。そのほとんどは聖歌で占められて、歌詞や曲にひとつも難解なところはない。ボクはその四曲のすべてに唱和した。一神教においては難しいことを説く必要はないのだろうと思われた。
アニミズムという原初的な信仰の上に祖霊信仰を重ねている日本は、なんとなく仏教の国であると思いがちだが、外来宗教という意味ではキリスト教と仏教は同じである。日本に入ってきた時期がちがうだけである。だが、仏教の歴史の方がはるかに長いにもかかわらず、そのお葬式はいつまでも難解である。お経の意味が骨髄までなかなか届かない。なのに、仏教徒が多いわけは、市民革命のような時代がなかったからだろうか。いや、市民革命は一神教の世界でしか起こりえないのかもしれない。
〔無花果句会〕 昭和二一年(一九四六)、作家井本兀山人(青木健作)が〈終戦直後の一般的な虚脱と混濁のさ中にあって、せめては清純な清水に渇を癒やしたい〉(『無花果』3号、あとがき)と願ってはじめた俳句会で合同句集『無花果』を編んで二十輯におよぶ。。歴代庵主に、井本健作(初代)・井本農一(二代)・高藤武馬(三代)・青木幹生(四代)・井本商三(五代)があり、平成十九年(二〇〇七)からは谷地快一(六代)がつとめている。ちなみに、井本兀山人(健作)の長男は農一(庵号茫亭)、三男が商三(俳号田痴)。
〔アニミズム〕 自然界のすべての事物にアニマ(霊魂)が宿るという信仰。