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句文融合◆若葉して御目の雫ぬぐはばや  芭蕉

 招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十余度の難をしのぎたまひ、御目のうち塩風吹き入りて、つひに御目盲させたまふ尊像を拝して、

  若葉して御目の雫ぬぐはばや

    ―芭蕉『笈の小文』(新潮日本古典集成『芭蕉文集』85頁)より―



〔鑑真和尚〕  第九次(七三二)の遣唐使一行には興福寺の僧栄叡(ようえい)と普照が加っていた。大使多治比広成(たじひのひろなり)らが帰国した後も、この二人は唐にとどまって正式に戒律をわが国に伝える高僧を招く努力をつづけた。そして天宝元年(天平十四年〈七四二〉)十月、唐の楊州に大明寺で、鑑真和上と出会う。(中略)面談した二人は鑑真和上に「仏法東流して日本国に至り、その法有ると雖(いえど)も、法を伝える人なし、むかし聖徳太子が『二百年後に聖教日本興る』と曰ふ。今この運に鐘(いた)る」と和上の来日を強く要望した。(中略)鑑真和上は「仏法興隆の国(日本)へ伝法する者はいないか」と問うたが、弟子たちは黙して語らず、しばらくして祥彦(しようげん)が日本は甚だしく遠く、渡航はきわめて困難で助かるのは難しく、中国に生まれかわることはさらに難しいのでみな黙っていると答えた。その通りである。「是法事のためなり、何ぞ身命を惜まんや、諸人いかずば我すなわはちいかんのみ」と。(中略)たびたび遭難し、遣唐副使大伴古麻呂の船で、その六度目、阿児奈波嶋(沖縄)から鑑真和上一行二十四名が薩摩秋妻屋浦(あきめやのうら、坊津)に上陸したのは天平勝宝五年(七五三)の十二月であった。鑑真和上らが平城京に入ったのは翌年の二月である。(中略)開山御影堂に安置されている高さ八一・八センチの盲目の鑑真和上とその北東の和上の御廟も見のがせない。(中略)最澄(伝教大師)が入唐以前に、鑑真和上のもたらした天台経典で学んでいたことは軽視できない。  ―上田正昭『大和路の旅』角川選書より―
by bashomeeting | 2010-05-23 21:50 | Comments(0)

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