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題詠も感動が先にある詩歌なり◆坪内稔典さんの講演を聴く

 東洋大学に東洋学研究所があって、ボクもそこのメンバーである。7月24日(土)の午後、「日本の老年期における死と孤独」というプロジェクトが、坪内稔典氏を招いて公開講演会をおこなった。「正岡子規―病気を楽しむ」という題であった。

 話は、22歳で喀血して子規と号して以後、余命十年を自覚して生きるということは、彼にとって病気を楽しむことのほかならなかったという主旨。俳句・短歌そして文章、また読書や議論もそうした真摯な人生の産物ということになる。

 中で稔典氏は、西欧から新しい詩歌が入ってくる明治時代を、近代と前近代の境界とした上で、近代はまず感動があって表現へと向かう時代だが、それまでの日本(前近代)は初めに表現があって、あとから感動が付いてくるという文化を構築していたと説いた。いわゆる題詠がそれで、子規が親しんだ一題十句・運座(膝廻し・袋廻し)・競吟などは、表現が先にあって、しかるのちに感動がそなわるという句作法だという。

 学ぶことの少なくない話であったが、ボクには一点だけ異論がある。すなわち、題詠は誤解されることが多いけれど、これまた感動なしに表現されるものではない。和歌における、客観写生における、花鳥諷詠における題詠は、けっして表現を先にして、感動をあなたまかせにするものではない。題詠もまた感動が先にある表現である。


     田村御時に、女房のさぶらひにて
     御屏風の絵御覧じけるに、「滝落ち
     たりける所おもしろし。これを題にて
     歌よめ」とさぶらふ人におほせられ
     ければよめる

   思ひ堰く心のうちの滝なれや落つとは見れど音のきこえぬ(三條町・古今・雑歌上)

   
by bashomeeting | 2010-08-12 09:12 | Comments(0)

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