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海紅旅日記◆曽良旅日記の村上をめぐる

◎八月二十八日 郡山在住のM氏が東北新幹線で上野へ出て、上越新幹線に乗り換える手筈になっている。そこで、大宮から乗車するボクと合流して新潟へ。卒業生との年に一度の旅で、今年は曽良旅日記の村上を歩く予定。『トランヴェール』は恐竜を特集していた。

◎この旅にボクが用意した資料は、近く雑誌に掲載予定の随想「銀河に架ける恋」という『おくのほそ道』越後路ゆかりの小文と、曽良旅日記の村上滞在頁、そして教養文庫『芭蕉と旅〈下〉』(昭48.9 社会思想社)に載る村上の地図の三点。二十三名の参加予定者のうち、今夏の暑さで不調を訴える者四名欠席。総勢十九名の旅となる。今年は現在四年生のN君の飛び入り参加があって、少しだけ平均年齢が下がる旅になる。

◎『おくのほそ道』の越後路は全体の1パーセントの分量にすぎないが、文学作品は文字量が多ければよいというものではない。越後路には、ここだけが持つ大切な意味があること。また「ふたつの奥の細道」という意味で、芭蕉が書いた『おくのほそ道』のほかに、曽良旅日記という、きわめて興味深い随行者の日記があるということ。村上は、『おくのほそ道』よりも、この旅日記を読む愉しみを教えてくれる町であること。今日は坂口安吾の墓参りもさせてもらえるようだが、その安吾と曽良旅日記にも、殆んど知られていない、淡いかかわりがあること。そんなあれこれを旅する愉しみとして解説した。

◎今夜泊まる予定の宿からマイクロバスが提供されていてありがたい。最初の見学地である北方文化博物館「豪農の館」へ。一市四郡六十四カ村に田畑を持ち、三万俵余の米を作っていた旧伊藤家。吟行で何度か来ていた場所だが、このたびは句を作る必要はなく、今までになくのんびりとさせてもらった。その入り口に南魚沼の靴下製造屋さん「カイセ」(http://www.kaise-kutsushita.com/)が店を出していた。素材が綿であることを確認して購入、三足千円とは安し、履き心地もよし。

◎その博物館から近いということで、阿賀野川沿いの大安寺の坂口家墓所を拝し、村上に向かう。石船(いわふねじんじや)にバスを止めて、句碑二基をみる。「花咲いて七日/鶴見る麓哉/はせを翁」「文月や/六日も常の/夜には似す/はせを」。

◎瀬波海岸の「汐美荘」(http://www.shiomiso.co.jp/)に着く。日本海の日没を眺めて、入浴。そして食事。岩船麩・のど黒・村上牛など高級とのことで、粗食が趣味の私にはもったいない。みんなには岩船産コシヒカリの釜飯が評判であった。

◎八月二十九日 村上見学。鮭の博物館「イヨボヤ会館」で、その三面川の増殖技術の歴史を堪能。魚をイヨとも呼ぶことは『和名抄』による由。ボヤは村上の幼兒言葉で魚。この地では魚といえば鮭のことであったとのこと。なお、ここでいただいた「村上めぐりマップ」を見ると、今は新しい道路が整備されて、ボクが用意した教養文庫の地図がいかにも古い。その時代の差を思わせてくれる点も名著ならではというべきか。

◎上片町の地蔵堂で芭蕉句碑を見る。「けふはかり/人も年よれ/初時雨/はせを」。すぐそばに銘酒「〆張鶴」の宮尾酒造あり、外から眺めてバスへ戻る。加賀町の稲荷神社へ向かい、境内の芭蕉句碑を調べる。「雲折をり/人を/やすむる/月見かな/ はせを」(「をり」は踊字)。

◎浄国寺を訪ねる。一燈公(榊原良兼)の墓はこの寺に隣接した光栄寺にあった。今は夏草の空き地となっている。気配を察して、住職が説明に出てきてくれた。

◎大町で鮭文化を今に伝える店「喜っ川」(http://murakamisake.com/)を見学し、天井から吊される塩引き鮭の、アミノ酸発酵の香りをかいだ。日曜日のせいかもしれぬが、この店以外の大町は残暑厳しいシャッター通りのように見えて淋しかった。数年前の石巻でも同じ景色をみた。

◎徒歩で浄念寺へゆき、目がくらむほどの阿弥陀如来を拝す。一時的に榊原家の菩提寺泰叟院となった寺という。

◎昼食は井筒屋(http://www4.ocn.ne.jp/~izutsuya/)に案内される。ここは芭蕉と曽良が二泊した大和屋(『曽良旅日記』に「宿久左衛門」とある。)跡にある宿屋で、規模は小さいものの、今も毎日一組の泊まり客をとる。看板であるみがき鰊が確かにうまい。芭蕉と曽良ゆかりの場所ということで冷麦もでる。曽良旅日記に「冷麦持賞」とあることによる。すなわち、村上に着いた翌日の六月二十九日(陽暦八月十三日)、曽良は村上藩の榊原帯刀(筆頭家老)の父良兼(法号「大乗院殿法岩一燈居士」)の墓を拜みに光栄寺へゆき、戻った宿で冷麦を御馳走になっている。建物は明治期の町屋の風情を残し、国の登録有形文化財とのことであった。カフェ「Tea井筒屋」、減農薬・減化学肥料の野菜や加工品を売る「桃青庵」という店を併設。 案内書にある「芭蕉のみた夢のつづきを…」というコピーがニクイ。

◎帰途、「乙村(きのとむら)」、今の北蒲原中条町の、乙宝寺参詣。曽良旅日記七月一日(陽暦八月十五日)の箇所に「巳ノ尅村上ヲ立 午ノ下尅乙村ニ至ル 次作ヲ尋 甚持賞ス 乙宝寺ヘ同道 帰テつゐ地村 息次市良方ヘ状添遣ス 乙宝寺参詣前大雨ス 即刻止」とあって、芭蕉も曽良とともに参詣した寺と考えられている。境内に円形の芭蕉句碑あり。「うらやまし/浮世の/北の山桜/ はせを翁」とある。碑陰は削られて難読なれど、円形碑である点から、『諸国翁墳記』に登載されている可能性が高い。とすれば、多少の情報を追加できるか。御手洗を満たす伏流水は弘法大師の伝承を持つ。

◎この会は今年で十五年を迎えた。翌年誰が幹事を受けるかは、地方ごとに輪番を心がけていて、今年は新潟在住の人々であった。毎年のことながらその準備とチームワークに対して頭の下がる思いである。


〔曽良旅日記の象潟から村上へ〕
◎六月十五日(陽7.31)小雨の酒田を発ちて吹浦(飽海郡遊佐)泊。
◎十六日、女鹿(飽海郡遊佐)・三崎峠(県境。有耶無耶の関?)・小砂川(象潟)・関(象潟。有耶無耶の関?))を経て、強雨ゆえ船小屋に休憩して昼時に塩越(象潟の古名)着。能登屋「佐々木孫左衛門」(象潟町三丁目塩越155 安藤菓子店)という宿で休憩、熊野権現の祭で女性客があるため、向屋(三丁目塩越19 関氏宅)を借りて泊。熊野神社東側の象潟橋で雨暮の景色を見る。橋の側の舟つなぎ石は、かつての遊覧船のなごり。今野加(嘉)兵衛(名主又左衛門実弟)たびたび来訪。
◎十七日、道々眺望して皇宮山蚶満寺へ。この寺に神功皇后(仲哀天皇后。応神天皇の母)が三韓征伐(日本書紀。四世紀)の帰途、蚶満寺に立ち寄り、皇后所持の二珠(干珠・満珠)により寺号が付けられたという伝承あり。御陵の伝承もあり。西行歌ゆかりの櫻木所在地ともいう。宿に戻って熊野権現渡御をみる。権現に出かけて踊りなど見る。夕飯後に茶・酒・菓子持参の加兵衛案内で舟で象潟めぐり(能因島)。これに巳ノの商人低耳が同道。夜嘉兵衛の兄又左衛門来訪して、その依頼で象潟縁起を書く。(象潟懐紙を加兵衛に与える)。文化元年(一八〇四)地震で地盤隆起して陸地化。
◎十八日 朝に象潟橋から鳥海の青嵐を眺める。朝食後に象潟発。夕刻に酒田着。
◎十九日 不玉亭で三吟開始。江戸へ行く寺嶋彦助に託す手紙を書く。芭蕉から杉風・鳴海の知足・名古屋の越人宛。曽良より深川の長政宛。
◎二十日 三吟継続。
◎二十一日 三吟満尾。
◎二十二日 
◎二十三日 近江屋玉志宅に招かれ、「初真桑」の句あり。
◎二十五日 酒田を発つ。浜中を経て大山着(西田川郡大山町)。丸屋義左衛門宅泊(低耳紹介状)。
◎二十六日 大山を発つ。三瀬・小波渡・大波渡・潟苔沢(堅苔沢。鬼かけ橋・立岩等岩組)を経て温海着。鈴木所左衛門宅泊(低耳紹介状)。
◎二十七日 温海を発つ。曽良は温海山奥の湯本見物、芭蕉は馬で鼠ヶ関を越える。中村(村上市山北地区)泊。
◎二十八日 中村を発つ。葡萄(武動峠。未詳)を経て村上城下(榊原氏十五万石。筆頭家老榊原帯刀)、大和屋久左衛門泊。城内知己に通知。彦左衛門同道で喜兵衛(町年寄)・友兵衛来る。
◎二十九日 帯刀から銭百疋拝領。喜兵衛・友兵衛案内で光栄寺の一燈公(榊原良兼。帯刀父)の墓参り。宿に戻って、冷麦をもてなされる。大和屋案内で瀬波海岸を見る。喜兵衛の隠居や友兵衛などから贈り物あり。
◎七月一日(陽8.15) 喜兵衛ら案内で藩主菩提寺泰叟院(浄念寺)参詣。村上を発つ。乙村で次作を尋ね、持てなされて、乙宝寺を見る。築地村の紹介状を示して次市郎宅泊(次作の息子)。
◎七月二日 築地村を発つ。新潟着。追い込み宿以外に宿がなくて困るが、源七という大工の母親が同情して泊めてくれる。
by bashomeeting | 2010-09-01 17:20 | Comments(0)

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