芭蕉と信仰◆九月のかげろう金曜会
2010年 09月 20日
あらたふと青葉若葉の日の光
この句に、自然のエネルギーとしての神仏を読み取れないようでは『おくのほそ道』は理解できない。作品をひとすじの道として読んでほしいと告げた。
しばらくは滝に籠もるや夏の初め
日本という国は、信仰とか修行といえば艱難辛苦に耐える姿を想像しがちだが、夏安居の本来は艱難辛苦を避けて、ひたすら心の平安を求める環境をつくり、そこで心静かになることだ。けっして健康を害する危険のある修行を選ぶことではない。それがすなわち禅(ヨーガ)である。ヨーガとは心静かになるということであり、無為自然とは作為を離れて自分の原点について考えることである。ゆめゆめ忘我をめざすことではない。この句にはそうした修行へのあこがれがあらわれている。
これは光明寺の、
夏山に足駄を拝む首途かな
という句についても同じである。
雲巌寺の文章に芭蕉が紹介する仏頂和尚の、
竪横の五尺にたらぬ草の庵結ぶもくやし雨なかりせば
という道歌についても同じである。雨でさえ、心の安寧を妨げるものとして避けるのだ。それが妙禅師の死関、法雲法師の石室をさえ思わせると言っているのだ。当然木啄は遠慮せざるを得ないだろう。