能因島の石◆象潟スクーリング始末(2)
2010年 09月 27日
この作品の旅人は諸国一見の僧を気どっている。しかし出家はしていない。していないことが、ことさら出家した僧へのあこがれとなっている。その人とは具体的に能因であり、西行である。その足跡を辿ることを通して、自分の心に生まれ出づるものをすくい取ろうとしている。したがって、『おくのほそ道』が歌枕探訪の旅にみえるとしても、厳密な歌枕探訪ではない。陸奥と出羽を中心とする能因・西行の足跡を訪い、その伝承にふれることが自体がよろこびなのだ。この作品の旅人自身が、僧にもあらず、俗にもあらずと書いているではないか。望んでも果たせなかった曖昧な存在としての人間、そういう自分を蝙蝠にたとえている。人生すでに晩年にある身は、僧でも俗でもない中途半端な生涯を受け入れているのだ。これでよいのだと認めている。その諦観はどこから来たか。私はそれを禅(ヨーガ)と考えている。禅とは心静かになること。雑念を置き去りにして落ち着くこと、自分のことを考えることである。それは日光山や雲巌寺、そして立石寺など、『おくのほそ道』のあちこちに見えているが、それでもわからないなら、「幻住庵記」を読むことだ、『笈の小文』のおさらいをすることだ。