能因島の石◆象潟スクーリング始末(了)
2010年 10月 05日
◇問い:文学史上の俳人と、そうでない俳人との違いは何か。
◆答え:文学史上の俳人とは歴史の転換期を作った、あるいは支えた俳人ということだ。したがって、作品のすべてが優れているわけではない。だから、上等な歳時記や類題集を編もうとすれば、貞徳・宗因・芭蕉・蕪村・一茶であっても落選は少なくない。子規や虚子だからといって、けっして多くは採用されないだろう。佳句は文学史という山脈の裾野にたくさんある。だが、そういうアンソロジーを作るのは手間がかかるし、権威筋からの威圧もあるから、教科書には十年一日のごとき句が並ぶのだ。そうした力学から解放されるためには、自分の解釈力を磨くしか方法はない。すぐれた編者に俟つしかない。
◇問い:俳句も含めて、詩という短い形式では、言外の意味を把握せよという。どうすればよいか。
◆答え:私はそうは思わない。書かれている以上の意味があるとは思わないことだ。書かれてある通りに解釈してわからない作品はダメな作品と思えばよい。書かれていることだけは理解できる日本語力をつけることだ。
桃青し赤きところの少しあり 素十
という句が、ある叢書に、
桃赤し青きところの少しあり
と誤って紹介されていた。これは表現の上では「赤」と「青」が入れ替わっただけだが、意味はまったく逆になっている。素十の作品ではなくなっている。この叢書の編者は書かれてある意味がわかっていなかった。それが理解できればよい。書かれているとおりに読むことだ。それ以上の事柄は鑑賞であり、創作である。
五月雨をあつめて涼し最上川
五月雨をあつめて早し最上川
前者は元禄二年(一六八九)の五月二十八日(陽暦七月十四日)に、大石田の高野一栄宅で巻かれた歌仙の発句で、後者は『おくのほそ道』で最上川という早川を讃える句である。両者の相違は「早し」と「涼し」にすぎない。これは作者は一人だが、それぞれ主題の異なる別の独立句と言ってよいのだ。
「言外」の意味ではなく、「言内」の意味を考えよう。表現を一個の生命体として脳裡に収めることだ。しかし、日本語力をつけねば、それもおぼつかない。日常会話ができるからといって、日本語が出来ると自惚れてはいけない。日本人だから、日本文学が理解できると思ってはいけない。英和辞書を使うように、国語辞書も使うことだ。
◇問い:『おくのほそ道』と『曽良旅日記』の違いはなにか。
◆答え: 課題1で、すでに説明したことだが、『おくのほそ道』は創作であり、『曽良旅日記』は記録である。だから、『おくのほそ道』中の人物を、実際に旅した芭蕉と曽良と思ってはいけないということ。作中人物は造型されデフォルメされた結果であるということだ。井本農一先生はそれを「私小説的」という言葉で説明していた。
◇問い:「俤松嶋にかよひて又異なり、松嶋は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはへて、地勢魂をなやますに似たり」の解説で、松嶋の旅より象潟の方がよほど面白いと言った意味を、もう少しわかりやすく言うとどうなるか。
◆答え:象潟は文化元年(一八〇四)の地震で隆起してしまって、芭蕉が舟を浮かべた入江はもうない。人はそれを残念がる。しかし、初夏の一面の水田や、いまの稲田のなかに点在する島々は、芭蕉の旅以上の象潟を想像させてくれているとも言える。その楽しみがわからなければ、芭蕉の旅の愉しみも理解できないだろうということである。
◇問い:「黄奇蘇新のたぐひにあらずばいふ事なかれ」(笈の小文)と書いた芭蕉の『おくのほそ道』は、その言葉通り、それまでにない新しい紀行であるという説明が、いまひとつわからない。
◆答え:『笈の小文』はその一節の前に、「其の日は雨降り、昼より晴れて、そこに松有り、かしこに何といふ川流れたりなどいふ事、たれたれもいふべく覚えはべれども」とある。ということは、『おくのほそ道』に「灯もなければ、ゐろりの火かげに寐所をまうけて臥す。夜に入りて雷鳴り、雨しきりに降りて、臥せる上よりもり、蚤・蚊にせゝられて眠らず。持病さへおこりて消え入る斗になん」(飯塚)とか「三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す」(尿前の関)とか、「月の輪のわたしを越えて、瀬の上と云ふ宿に出づ」(飯塚)とか「武隈の松にこそめ覚むる心地はすれ」(岩沼)など書くだけでは、紀行とする意味がないということだ。中国の黄山谷や蘇東坡という詩人のように、新しみが不可欠だというのだ。では『おくのほそ道』のどこにそれを見届けかれるか。出家へのあこがれを基調とする西行思慕や古歌探訪、連句による陸奥の人々との唱和にその手がかりを求めたいと言ったのだ。
◇問い:芭蕉にとって旅とはなにか。
◆答え:仏道修行でしょうネ。

私は先日の地方スクーリングで二つ忘れられない句があります。ひとつは先生が引用した素十の「桃青し赤きところの少しあり」で、もうひとつは海紅(先生)の「乾坤の吐息の如き霧に住む」です。前句は繊細な観察力に感嘆し、後句は、気軽で軽薄に現代社会を生きる自分に、胸がつぶされそうな重苦しさという、人生で忘れてはいけない側面を教えてくれました。
「芭蕉の旅は仏道修行」。わが意を得たりです。試験勉強の参考とさせていただきます!
