俳縁ということばが嫌いである。おそらく仏縁ということばの連想から生まれ、俳句が引き合わせる人のつながりという意味であろうから理解できなくはない。しかし、火炎(焔)や佳宴ということばはあっても歌人の交流を歌縁とは言わないだろうし、四縁・詩宴・支援・私怨・紫煙・試演などは辞書に出ていても詩縁という言葉は聞かない。とすれば、俳縁ということばは、ひとつのムラだけに通用する独りよがりのように思えて、素直に受け入れられないのである。俳句はそのように狭い世界で自己完結してほしくない。子規が生涯をかけた事業がすでにこうしたムラを抜け出すことではなかったか。ゲーテが書くように、詩人になるためには詩人の国にゆかねばならないが、その詩は詩人の国の外に住む人の鑑賞に堪えうるものでなければならないだろう。