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再耕:酉の市 

  はるをまつ事のはじめや酉の市  其角(月岑編『東都歳時記』)

 論文を読む会で「酉の市の例句が古句にないのはなぜだ」という話題があった。結論を先に言えば、酉の市が文化として定着したのはそれは明治時代以降であるからということになる。
 本当に近世に例句はないのか。この疑問に答えるべく身辺の歳時記類を読む。その結果、どうにか、この其角の句を見つけた。しかし今泉先生たちが編んだ『其角全集』(勉誠社)にこの句は見あたらない。ということは今の段階では存疑とせざるを得ない。句に其角らしい切れ味が乏しいから、月岑がブランドである其角の名を借りて創作したか、それに似た偽作の可能性もある。以下に、江戸時代の酉の市の記事を抄出してみよう。

〔酉の市人〕恋もこもれり酉の市人(誹諧けい8・天明6)
〔浅草田圃酉の市〕はるをまつ事のはじめや酉の市 其角(東都歳時記・天保9)
〔酉の市〕酉の日 伊豆国賀茂郡三島の駅にあり。(増補誹諧歳時記栞草・嘉永4)
〔酉の町詣〕酉の日 鶏大明神の社は武州葛飾群花又村にあり。江戸より三里。毎年十一月酉の日、市立つ。酉の日三ツあれば三日ともに市なり。上の酉の日を專とす。江戸近在より諸人群衆して、甚だ賑はへり。是当社神事の遺意か。土産に芋がしらを売也。参詣の人、必これを買ひて家に帰る。又此日、浅草寺の裏手、鶏大明神にも此市ありて群衆す。(増補誹諧歳時記栞草・嘉永4)
〔酉の市〕江戸にて今日を酉の市と号し、鷲(おおとり)大明神に群詣す。この社、平日詣人なく、ただ今日のみ群詣して富貴開運を祷ること、大坂の十日戎と同日の論。(守貞漫考・嘉永6ころ)

 東京都台東区千束に長国寺と鷲神社が隣り合って存在する。「鷲」はオオトリと読ませている。長国寺の縁起では鎌倉時代のある十一月の酉の日、国家平穏を祈願する日蓮の前に菩薩が現れたという。鷲神社では、天宇受売命が舞う際に弦楽器を奏でる神がいて、天手力男命が天之岩戸開ける際に、その弦楽器の弦の先に鷲がとまった。これを世を明るくする瑞祥として弦楽器担当の神を天日鷲命(アメノヒワシノミコト)、つまり鷲大明神として祀ることになったという。また、のちにヤマトタケルが東夷征討の途に戦勝祈願し、お礼参りで社前の松に熊手をかけた。その日が十一月の酉の日であったので、この日を酉の市にしたともいう。神仏は附会(ナンデモアリ)だからおもしろい。コジツケという意味である。お酉様信仰が上方の堺市鳳町の大鳥神社を本社とすることはよく知られている。しかし、東京のお酉様信仰はそばに新吉原の遊郭が控えていたことによって、独自のにぎわいと展開をみせたにちがいない。その意味で『守貞漫考』の「大坂の十日戎と同日の論」という指摘はよくモノが見えている人の解説である。
 ここからわかることは、年中行事としての酉の市は近世中期、あるいはそれ以前から立っていたが、幕末においてもそれが季題化するほどの現象はなかったということだ。『栞草』の「酉の町詣」はたぶん「酉の市詣」や「酉の祭詣」で、イチとマチとマツリがまぜこぜになった。「市」はマチと読んだし、マツリとマチは似ていなくもない。全国の訛りを持ち込んだであろう江戸とその近郊に、こうした混乱が起きてすこしも不思議はないのだ。だから「酉の市」を「酉の町」とする解説は間違として斥けてよいだろう。また「鶏大明神の社は武州葛飾群花又村にあり。江戸より三里」の社とは足立区花畑七丁目の大鷲神社(おおとりじんじや)で、別の縁起を伝えている。ここが台東区の鷲神社の本社と思われ、その初期の姿は、おそらく近在の者がその年の収穫や、季節の工芸品を持ち寄ったフリーマーケットの類ではなかったか。酉の市の起源は今の朝市・夕市や日曜市にも似た、素朴な市であったにちがいない。

  馬肉屋の姉妹に逢ひぬ一の酉    海紅
  夕月ほそき立冬の街         希望
  遠千鳥入江の闇をおしひろげ     海紅
by bashomeeting | 2010-11-14 02:39 | Comments(0)

芭蕉会議の谷地海紅(本名は快一)のブログです。但し思索のみちすじを求めるために書き綴られるものであり、必ずしも事実の記録や公表を目的としたものではありません。


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