俳人蕪村の原風景◆法政大学「人間環境ゼミナール」
2011年 01月 01日
秋の夜の会話 草野 心平
さむいね
ああさむいね
虫がないてるね
ああ虫がないてるね
もうすぐ土の中だね
土の中はいやだね
痩せたね
君もずゐぶん痩せたね
どこがこんなに切ないんだらうね
腹だらうかね
腹とつたら死ぬだらうね
死にたくはないね
さむいね
ああ虫がないてるね
まず、心平のこの詩を朗読し、詩の主が二匹の蛙で、舞台は秋であること、しかし日本語には定まった季節があるという古典語の視点でいうと、「蛙」は春季で、「虫」は秋季、また「さむい」は冬季というふうに、三つの季節が混在していること、近代文学以降はやかましく言わないけれど、日本の古典文化を愉しむには、このあたりへの目配りが不可欠であると説いた。そしてなにより心平のこの詩には、一行一行が緊密な関係をもちつつ、物語られる一つの筋があることを確認した。
古池やかはづ飛こむ水の音 はせを
芦のわか葉にかゝる蜘(くも)の巣 其 角
暁台編『幽蘭集』(寛政11)
次に、蛙つながりでこの芭蕉の句を、其角の脇句とともに示し、芭蕉・蕪村そして一茶という人たちが本業と考えていた形式が、連句(俳諧之連歌)という他者との合作であること、ゆえに一行一行の緊密度はゆるく、その空白を補いながら味わう文芸であったことを説いた。
とはいえ、こうした連句は芭蕉とそのグループが高い文芸性を実現したが、いまから振り返ると、その流行は蕪村のころに早くも下降しはじめている。つまり、蕪村の連句の魅力は、その発句(俳句)の魅力に及ばない。蕪村は芭蕉連句の魅力を俳句で実現した人と考えてよい。その名句とされる句々はおおよそ「北寿老仙をいたむ」同様の淋しい景色である。蕪村の句が淋しすぎる理由は生い立ちにあって、「春風馬堤曲」の主人公である藪入り娘には蕪村の姉が、ラストシーンで「弟」を抱いて立つ「白髪の人」には祖母が投影されており、「弟」とは蕪村自身と見て誤らないと思われると説いた。蕪村の淋しさは、すでに幼児期に両親の情愛からかけ離れた境遇で育ったことにあると思う。研究者には評判は悪いが、朔太郎の「郷愁の詩人与謝蕪村」という読みはかなり正しいものであったように思うと述べた。