あの日に帰りたい(転載)
2011年 02月 26日
ボクは昭和二十三年(一九四八)生まれだが、その三年前まで戦争が続いていたことを知らずに育った。父がその戦争に駆り出されていたことを知らずに育った。戦争でたくさんの人が死んで、その哀しみを引き受けるようにボクたちが生まれたことを知らなかった。でも団塊の世代とひとくくりにされるのはいやだった。小学四年生まで通った芦別小学校では一クラス六十人に近く、しかも八クラスも九クラスもあったように思うが、みんな個性的でけっして団塊ではなかった。すてきな校舎だったが、登校時刻を二部に分けなければ授業が成り立たなくなり、分校ができて、住居の近いボクたちがそこに移った。五年生の五月だったように思う。やがてそれが緑ヶ丘小学校になった。すこしも緑ヶ丘ではなかったが、町中が山々に囲まれているのだから、まあいいかと思った。利幸君が迎えに来てくれて、毎日一緒に登校した。一学年三クラス。金子先生・村田先生・五十嵐先生が受け持った。ボクの担任だった金子修治先生のことは芦別高等学校同窓会誌『芦窓』(平二〇・六・一)に書いた。親が払った給食積立金は校庭の植樹に化けたし、まだ体育館がなかったので、ボクは廊下で行なわれた卒業式で答辞を読んだ。閉校後はまた芦別小学校に戻るという。ボクも一緒に戻って、あのころの先生や友だちに会いたい。 ― 芦別市立緑ヶ丘小学校 閉校記念誌『わか桜』所載 ―
〔解題〕芦別市立緑ヶ丘小学校 閉校記念誌『わか桜』は平成23年(2011)1月31日発行。発行者は芦別市立緑ヶ丘小学校 閉校記念協賛会。芦別は北海道の中心部に位置する町。空知川の辺りにある。国策によって三井が開いた石炭産業で栄え、少年時は市としては日本でもっとも広い面積をもつことが教科書に記されていた。人口も七万人を超えていた時代があったように思うが、閉校記念協賛会会長として大任を終えられた坂田憲正氏からの便りによれば、現在はとうとう17,000人を切って16,600人(国勢調査)になってしまったという。


