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この人の一篇◆大江ひさこ詩集『いつかひばりになって』

  いつかひばりになって

 ひばりが悲しき口笛を歌っていたころ私は三軒向こう隣りのお
にいちゃんと、もうつかわれなくなった防空壕の中で、おままごと
をしていた。おにいちゃんのお父さんはかっぽう旅館の主人でな
んでも板前あがりとかで、お母さんはおめかけさんなので、私が
おにいちゃんと遊ぶときはいつもこっそりとあそぶのだった。
 おにいちゃんは畑からだまって抜いてきたにんじんをもっていて、
肥後守で、上手に梅の花をこしらえるのだ。防空壕のうす明かり
の中の板切れのまないたに、金時にんじんの赤い梅の花がいく
つも並んで私がよろこぶとおにいちゃんはますますたくさんこしら
えるのだった。
 ある日いつものようにおままごとをしながらおにいちゃんが「わ
し東京へいくかもしれんよ」といって。
 私には何も言わないでいつの間にか、おにいちゃんはいなくな
った。
 そのとき私はいつか私も東京へ行って(ひばりになる決心)を心
に誓っていた。
 町の芝居小屋の花道に座って ひばりの映画悲しき口笛を見て
以来の………。


台所の流しの下に
良く研いだ包丁がある
菜きりぼうちょう
刺身ぼうちょう
文化ぼうちょうという
万能ぼうちょう
肥後守に似た形の
ペティナイフ
いく年月をこれで
刻んで来たことか
これさえあれば
なにも怖くない
とさえ思えてくる
きりきざむものが
不足してくると
流しにしっかり鍵を掛け
街へ探しに
でかけていくこともある
今日も今日とて
デパートの八階
人だかりをかきわけると
男が一人平たい刃物を
上下ではなく左右に動かしている
その手の下に
赤いにんじんのスライスが
うずたかく盛り上がっている
私のおにいちゃん…。
エスカレーターに掛けた
足もとが
ちょっとふらついたけれど
もうだいじょうぶだ
ひばりになる決心だって
まだすてたわけではない

〔解題〕大江ひさこ詩集『いつかひばりになって』(紫陽社 昭和62年12月15日刊)はばくぜんと、しかしながいこと手に入れたいと考えていた詩集。先日それが向こうの方から転がり込んできた。念じてみるモノであ。書名とする掲出の詩を含めて、二十二篇を収める。この人は抑制と自在とを手にしている。
by bashomeeting | 2011-05-14 10:41 | Comments(0)

芭蕉会議、谷地海紅のブログです。但し思索のみちすじを求めるために書き綴られるものであり、必ずしも事実の記録や公表を目的としたものではありません。


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