講座概要「芭蕉とその末裔―蕪村・一茶・子規はこうして誕生した―」
2011年 06月 06日
日程は10日(火)、17日(火)、24日(火)、31日(火)の四回構成で、各回の題目は「第1回 松尾芭蕉の作風」「第2回 与謝蕪村の実像」「第3回 小林一茶の近代性」「第4回 正岡子規の仕事」である。
配付資料には、「話のあらまし」として以下のように書いた。
昨年の五月にお話しした俳文芸(連句や俳句)も日本の歌ですから、芭蕉は広い意味で和歌と考えていました。しかし現実には、三十一音の和歌は江戸時代に衰えて、それと入れ替わるように俳文芸の時代がやってきます。その大成者はやはり松尾芭蕉と言ってよい。そこでこのたびは、まず芭蕉の作風について解説し、その芭蕉のなにを受け継いで、蕪村・一茶・子規が生まれたかを、作品を通して考えてみたいと思います。
実際は、芭蕉晩年の作風を一言で言えば、景気(景色)の尊重・姿先情後・軽み(俗語とか口語とか言われる世界の尊重。和歌的な修辞法やことば遊びからの脱出)であるということ。蕪村句の淋しすぎる景色は、禁欲的に生きざるを得なかった生い立ちがもたらしたもので、境涯を隠した景気尊重の流れで説明できること。一方、一茶は「俗語を糺す」つまり、口語を自在に用いて、和歌や漢詩文の束縛から解放されているという点で、芭蕉の「軽み」の完成者であると思われることを述べた。そして子規については、「蕪村の絵画性を称揚し、連句を捨て、〈旧派の低俗な「俳」を切り捨て、小説・詩などと同列の文芸として新生をはかったのが子規の「俳句」であった〉(俳文学大辞典「俳句」の項)が、その俳句は日記や未完の私小説の欠片にとどまるものが多く、秀句と呼べるものは多くない。子規の主張は皮肉なことに、俳句よりむしろ、写生文の運動の結果である漱石や、アララギの伊藤左千夫や長塚節の小説において結実したと思う。このように子規の志は半ばで途絶え、言行は不一致に終わったが、その原因は寒川鼠骨のいうように、ただただ病にあったのだと気の毒に思う。その子規の俳句における無念は、これまた皮肉なことに、道灌山で後継者となることを拒んだ高浜虚子が晴らしたと言って誤るまい」と要約した。
一人称の詩という信仰を疑わない「近代」精神は、作品と作者の人生と区別することを嫌うが、「人はことばになれない/ことばも人になれない/だから/詩と詩人が過不足なく重なり合うことはない/すぐれた詩はすべて読み人知らずである」(Blog海紅山房日誌:4月7日「新方丈記12◆『写真で歩く奥の細道』を編んで、読み人知らずを思う」)と書いたとおり、両者をナイマゼにしては、詩歌の歴史は深まらないと思う。