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講座概要「坂口安吾と現代」◆「母」をめぐって―短篇小説「おみな」の場合

 「母」をめぐって、坂口安吾の作品を読み解いてみようと考えた理由は、「母」「母を殺した少年」「母の上京」など、母をタイトルに出す複数の短篇があるからだ。しかし、通読して驚いた。そのタイトルから読者が期待するであろう母は描かれていない。つまり、看板にだまされたという印象を持った。
 ボクは小説という言葉に〈小さな説〉、つまり〈人生に与えるささやかな回答〉という意味を与えている。その意味で、小説にはタイトルに答えるべきOne's opinion(view)が示されねばならない。しかし、先にあげた作品のどれにも、それがないのが不思議であった。
 そこで、もう少し作品の幅を広げてみると、「おみな」その他の作品にも母が紛れこんでいる。戸惑ったボクは、ひとまず拙速をさけて、ひとつひとつを分析してみることにした。
 まずは初期の「おみな」から。
 これは主人公である「私」が自分の「母」を語るかにみせて、「母」ではなく「女」を語るというものである。それは次のようなみごとな書き出しではじまる。

  母。―― 為体の知れぬその影がまた私を悩まし始める。

 だが、それに続く「私」と「母」の心理的な葛藤は、エゴ(自我)の芽生える十歳前後の少年の、ごく普通の反抗でしかなく、小説の展開としての次への期待を抱かせない。
 社会通念では、家の主は父性がになうというのが一般的である。だが実際のところ、母とは父以上に家そのものであろう。菊池寛の戯曲『父帰る』を思い出すまでもなく、父がどんな破滅の道を辿ろうとも、その家が崩壊することはない。しかし、母性の不在は家庭というものを成り立たせない。母とは常に家のすべてをぶち壊せる立場にある。
 こう考えているボクは、この作品の「母」に対する「私」の反抗にリアリティを感じない。古来愛憎はひとつのもので、家族に対する憎しみは愛の裏返しである。だから、この作品において「母」が「私」に加えるひとつひとつのふるまいは折檻のたぐいにすぎず、かつては家庭におけるごく普通の躾であったと思う。だから、それに過剰に反応する「私」は、「私」自身が書いているように、「お天気のいい白昼の海ですら時々妖怪じみた恐怖を覚える臆病者の私」であって、それ以上でも以下でもない。家族会議などという気持ち悪い言葉が存在する現代は少し事情が異なるかもしれないが、家庭に民主主義はないし、必要もない。あるのは母の命令だけである。
 作品は以下に、実は母を愛しながらも、手にできない愛を求める、孤独で臆病な「私」の、たった一人の理解者として、腹違いの姉を思わせぶりに紹介しながら、「母」の愛の代償として描かれる女性遍歴を正当化してゆく。しかし、そこにもプロットと言えるような結構はなく、破綻とも息切れとも思える結末が演出されるばかりである。こうした小説は、ボクの親しんできた小説の枠組みにはあてはまらない。だがもしかしたら、これが道化と和訳されるファルス(Farce)の実践なのかもしれないと話した。
 安吾のファルスについて、試みに柄谷行人の言葉を引けば「徹底的に合理的だろうとする精神が、その極限において敗北し(突き放され)、非合理を全面的に肯定すること」(ちくま文庫『坂口安吾全集Ⅰ』解説)である。それを「おみな」の中から抽出して例示すれば、「私」のために家出した女と「私」のところへ、母を慕う娘が訪ねてくる場面であろうか。「女は私の息苦しさを救うために子供の愛を犠牲」にして娘を追い返す。その一部始終を傍観して「私」は次のように総括する。「それからの数日、私達は一向語り合うこともなく、ただなんとなく茫然と暮していたが、決して正当に通じ合うことはあるまい二人の男女の心に、ある懐しい悲しさが通い、そして二人は安らかであった」。だが、安らかであり得た理由は「子供の訪れのセンチメンタルな出来事にはゆかりのない」事柄だ。「ある懐しい悲しさ」とは「愛し合うことは騙し合うことよりもよっぽど悲痛な騙し合い」であることを再確認したところに生まれている。「そのこと自体がもう大変な悲しさではないのか」と結ぶ「そのこと」とは見えてしまった虚無感とでもいえばよいであろうか、諦観といえばよいであろうか。
 諦観とすれば、人が欲望と感情に左右されて生きざるを得ない、救いようのない動物であるとする、親鸞の『歎異抄』や『三帖和讃』などの到達点に似ている。安吾のファルスはアテネフランセに学んで以後に身につけた知識であろう。だが、それは学生時代にインド哲学科に学んだ事柄、たとえば煩悩即菩提などという便法などと底辺でつながるものであった可能性もあろう。とすれば、後に説かれる『堕落論』の芽がここにすでにあったことになる。
 なお、ファルスという考えには、『源氏物語』や『好色一代男』を読むように、あるいは春画を見るように、読者にただ面白がられることを望む気持ちも含まれようとも話したが、これはさらなる追跡を済ませてから、あらためて指摘することになるだろう。

〔附記〕「坂口安吾と現代」は東洋大学のエクステンション講座Bという企画で、私の出番は平成二十三年六月十日(金)であった。
by bashomeeting | 2011-06-12 03:04 | Comments(0)

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