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連句考現学◆叙情の問題(転載)

     評論:叙情の問題                                     谷 地 快 一

 ごく稀に連衆の一人として付合に参加したり、最近の連句作品の読者として付合を眺めたりしますが、充足感をもったことがありません。ですから「忌憚のない批評をせよ」と求められても、わたしに憚かるものがあるとすれば力量不足のわたし自身以外にありません。以下に述べることを、このように見識の不足しているものの発言であることを承知の上で読んでいただきたい。
 最近の連句作品(と言ってもわたしの目に触れたものに限りますが)にわたしは不満です。その原因は何か。一句独自の詩情が薄いからです。東明雅氏が子規の連俳非文学論を批判して説く俳諧の文学性を参考にするならば、その第一にあげる「一句一句独自のおもしろさ」にあたると思います。わたしは連句を詩であると思っているのです。
 詩であるならば一句一句が美しい姿を見せてほしい。「ミラボー橋の下をセーヌは流れ」「わたしたちの恋も」「せめて思いだそうか、悩みのあとには喜びが来ると」というふうに。ここにアポリネールの詩を出すのは唐突にちがいありませんが、これを仮に三句と見れば、わたしには実に無理なく付いたものに思えるのです。
 もちろんアポリネールの詩は連句ではありません(連句に似たものもあるようですが)。しかし、ここに見える叙情の姿が最近の連句には欠如している。その原因はどこにあるのか。思いつくままに言えば、一句をものすための素材や用語の選択が当世風に媚びていること。式目や作法の運用にあたっては伝統俳諧に媚びていること。季語の斡旋に散文的な傾向が強く、一句の中に言葉相互の緊張が不足していることなどが指摘できると思います。
 子規は文学を感情の表現として、連衆に共有される感情を認めなかったと言われます。そうかも知れません。芭蕉は句作にあたっては「私意」を避け、「その物より自然に出づる情」を重んじたと言われます。そうかも知れません。しかし、情とは作者の側とか物の側とかに属するという次元とは別に、作品それ自体に属することによって、作者も物も存在証明が可能なのだと言うこともできると思います。姿は大切です。差し合いや去り嫌いの点検は伝統に近づくひとつの方法です。しかし、伝統とどのように異なっているかを視野におくことも連句復権の大切な条件でしょう。
 話は横道にそれますが、最近の小学校・中学校の音楽の教科書には新しい歌がふえて、わたしの知る歌がずいぶん少なくなりました。古い歌が採用されなくなった理由には、用語が文語調であることや、言葉の示す実体が世の中から消えつつあることなどがあげられるのでしょう。しかしわたしはこの事態をかなしいことだと思っています。文語調であることが理解の妨げになっているとは思えませんし、人が体験過去の外にある言葉に感動できないとは考えられないからです。人の生命に比較すれば言葉の生命は悠久と呼んでもよいものです。それを前提にしなければ古典作品は言葉の墓場と等しくなってしまいます。体験外の過去を含めて、よき過去を持つものだけがなつかしい未来を創造できるのです。その意味で新しく塗り替えられつつある教科書の歌は、常用漢字や当用漢字の枠組みと同じく子供たちの情操の芽を摘んでいるとも言えます。最近の連句における素材や用語が当世風に媚びているというのは以上のような考えによるのです。詩の言葉はたしかに存在します。俳諧に言う俗語を正すという考えは「正す」という意味について慎重にならねばなりません。それは「俗語を抱えて詩人の国へ行く」ということだとわたしは思います。わたしたちは言葉の海で泳がせてもらっているのだと思います。たくさんの言葉を知りたいと思う理由です。
 式目や作法の運用はどうでしょうか。伝統俳諧に媚びると言えば、なるほど不遜であります。わたしが「媚びる」と言わねばならないのは、古俳諧の式目や作法がすでに文学史の世界に押し込められつつある現在、それを知る最も有効な方法は学問の分野にあるのではないかと思うからです。口伝や秘伝を含めた式目や作法はできる限り客観性のもとで整理すべきものではないでしょうか。連句復権という展望に立てば立つほどその方がよいとわたしには思えます。実作においては、おそらくこうであろうという、ゆるやかな蓋然性のもとで連衆を得てゆくのがよいと思うのです。アポリネールの詩句を掲出した目的はそこにあります。好むと好まざるとにかかわらず、古俳諧と現代連句との間には近・現代の詩歌の歴史が横たわっています。そこを飛びこえて古俳諧と手をつなぐというのは、どこか屈折していると思います。蕉風俳諧は貞門・談林を引きうけて誕生しているはずです。現代俳句の先鋭なる一部分が古俳諧から離脱している悲しみと、現代連句が近・現代の詩歌を飛びこえようとする悲しみには似た表情が感じられるのです。もちろん、連句が詩文学であるということを前提にしてのことですが。
 季語の斡旋が散文的であるとは、つまり言語相互の緊張が不足していることであります。これは難しい問題で、連歌俳諧史が季語の増加の歴史でもあることを思えばやむを得ない一面かも知れません。ただ、ある言葉が春夏秋冬のひとつに特徴的であることによって、季語の増加が今後も進むとすれば、その必要性が根本から崩れる時期が来るかも知れません。伝統的な季語においてさえ、既に季感を失いつつあるものや実際の季節と重ならないものがあることも心配です。文化圏が全国に広がっている現在、地方による季感の相違も問題にしなければならないでしょう。大きな視野に立って例外を認めてゆくと、季語認定の意義さえ揺らいでくるかも知れません。死滅に近い季語の活性化を含めて、新しい季語論が待たれます。
 以上、求められるままに現代連句への恋愛感情を叙情性の角度から述べてきました。最後に捌き手に関する妄言を付してむすびといたします。
 連歌俳諧に「座の文学」というレッテルが貼られてずいぶん時が過ぎました。その座が座としての機能を維持し得るのは捌き手が存在するためです。連衆など問題でないというのではありません。連衆の死活は捌き手にゆだねられているという意味です。こうした座は、「座の文学」ではあっても、必ずしも「文学の座」とはならないはずです。法楽連歌を引くまでもなく、一座興行の目的は時代や連衆によって異なっています。ところが近・現代の詩歌は個我尊重の世界として続いてきました。つまり近代日本文学の潮流は「座の文学」ではなく、「文学の座」へ傾いてきたということになります。もちろん、それに対する反省もあるでしょう。近年の連句の流行はその反省のひとつであるかも知れません。現代連句の捌き手は、こうして古典俳諧の座が崩壊した時代を背負っている点に注意しなければ新しい座を獲得するのは難しいと思うのです。新しい座への架橋はどこに求めることができるでしょうか。わたしは芭蕉の言う「実」の意味を「ユートピア」と置き換えて楽しんでいます。「言語は、虚に居て実をおこなふべし」(『風俗文選』)に言う「実」とは「ユートピア」の謂であると思っています。ただし、これに続く「実に居て、虚にあそぶ事はかたし」の「実」は「ユートピア」ではありません。この場合は「実生活」に近い謂であると思います。つまり「実」を二元的に把握しているのです。ユートピアを現実よりもさらに現実的な世界というふうに理解できれば個我の詩人たちも連句の新しい座を形成する一員となり得るものと思います。日常生活は脈絡を持たずに雑然としています。そこにおける発見や驚きは言語表現によって脈絡が与えられ物語性を帯びます。それはすでに虚の世界に構築された実であります。それゆえに連衆と共有できるのであって、一経験が過不足無くそのまま他者に共有されることは不可能なことでしょう。(59・12・31)
               ―『都心連句』第三号(S59・4・30)、第六号(S60・3・31)所載―

〔附記〕最近、芭蕉会議というネット上のことではあるが、まことに久しぶりに連句(歌仙)を捌いた(白山連句会「畳這ふ」歌仙)。それは自分が連句についてどのような考えの持ち主であるかを、改めて考える機会になった。そこで、まだ高等学校の教師をしていた昔に、『都心連句』誌に求められて書いた評論を思い出した。若書きで恥ずかしいし、虚実についてきわめて恣意的なことを言っていて気が引ける。でも、俳文学の世界に入る原点が、このあたりにあったことはまちがいないので、この際に人の目にさらして批判してもらおうと思った。折から曝書の候でもある。呵々
by bashomeeting | 2011-07-08 18:40 | Comments(0)

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