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『おくのほそ道』の読み方―虚構は感情表現のためにある◆YOSHIAKI氏への回答

 あなたの『おくのほそ道』人物論を読みました。参考文献を丁寧に読んで整理している点を評価します。加藤周一著『日本文学史序説(下)』(筑摩書房)、井上敏幸氏執筆の『日本文学史8』(岩波講座)、復本一郎著『入門 芭蕉の読み方』(日本実業出版)、尾形仂著『「おくのほそ道」を語る』(角川書店)、井本農一ほか著『松尾芭蕉集』(日本古典文学全集、小学館)、杉本苑子著『おくのほそ道人物紀行』(文春新書)、これらはいずれもすぐれた参考資料であります。
 しかし、あなたの引用する箇所は、旅の事実と創作としての作品をまぜこぜにして解釈しているところばかりです。『おくのほそ道』が旅の事実をえがいたものでないことは、あなたがすでに承知しているところです。なのに、なぜ『曽良旅日記』や地元に伝わる伝承と作品との食い違いをおもしろがり、その違いによって芭蕉の心情を忖度しようとするのでしょうか。『おくのほそ道』を読むだけでは、芭蕉の意図を理解できないのでしょうか。わたしはそうは思いません。
 『おくのほそ道』は旅の事実をふまえてはいますが、事実そのものを書き残そうとしているところはありません。須賀川の相良等窮の敷地内に隠栖する可伸という実在者と、『おくのほそ道』で栗の木陰を頼みにしている僧は別人であります。芭蕉によって作りだされた物語中の人物であります。尾花沢の鈴木清風と、『おくのほそ道』の鈴木清風は別人であります。福井の等栽の妻は、その実像をさぐる手がかりさえありません。作品中の人物は作品の中で読み取られなければいけない。
 『おくのほそ道』は創作であります。創作である以上、そのひとつひとつは虚構であります。芭蕉はなぜ旅の事実を書かずに、虚構をめざしたのでしょうか。それは理屈が事実の解明のためにあるのに対し、虚構は感情の表現のためにあるからです。『おくのほそ道』は旅の事実ではなく、芭蕉の理想とする感情を読者に伝えようとしています。
 この作品を創作として読む時期が来ていると思います。創作として読むことができれば、人物論の対象を、神仏や古歌の作者にまで広げることができるでしょう。
by bashomeeting | 2011-08-04 15:02 | Comments(0)

芭蕉会議、谷地海紅のブログです。但し思索のみちすじを求めるために書き綴られるものであり、必ずしも事実の記録や公表を目的としたものではありません。


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