K先輩へ◆「人間に鶯啼や山ざくら」考
2012年 03月 21日
谷地です。Kさんにいただいた宿題、蕪村句「人間に鶯啼や山ざくら」(遺稿59)の「人間」の読みについて報告です。結論は、ジンカン・ニンゲンと読んでも、ヒトアヒと読んでも蕪村の意図をそれることはないと考えます。どちらかに決めよと迫られれば、この句の場合、ジンカン・ニンゲンと読む方が余情深しと答えたいと思います。正直に言えば、ヒトアヒと読んで、人間へのお愛想で鶯が啼くという近年の解釈には心がときめきません。蕪村を三十年以上読んで来ましたが、彼にはそのような作風はないとさえ思います。
「人間」という漢語には、おそらくジンカン・ニンゲンという読みに前後して、ヒトアヒという訓も生まれた。読みとは意味であるという視点で言えば、ニンゲン・ジンカンと読めば「世の中」「人の住む場所」の意ですが、ヒトアヒと和語に読めば「世間」における〈人づきあいや思慮分別〉という情緒的な意味が加わる。その意味を重んじる結果として、「人間」から「人愛(ヒトアイ)」「他愛(ヒトアイ)」という宛て字が派生したのではないか。つまり、漢語を輸入して言葉の豊かさを育んできた日本には、ジンカン・ニンゲンという言葉と、ヒトアヒという言葉の二語があった。しかし、両者の語義に反目するほどのものはない。
前田金五郎氏に従えば、「人間」はヒトアヒと読んで「人づきあい。人に対する愛想。人あたり」の意で、近世には「人愛」とも書いているようです。用例には「―、心ざま優に情けありければ」(平家八・妹尾最期)をあげています(『岩波古語辞典』)。『日本国語大辞典』でも「ひとあい」に「人間・人愛」の字を宛て、やはり「人づきあい。人に対する愛想」と解説し、用例に人情本『春色梅美婦彌』初・一回「これ扁屈なる野暮人を、和らかにして他愛(ヒトアイ)を自然と生ずるものぞかし」を加えて、「他愛」という漢字も宛てられたことがわかります。
近世の蕪村理解において、これは無視できないと研究者は考える。それで、「静かな山あい、わざわざ山桜を尋ねて来た人に対するお愛想のつもりでか、時ならぬ鶯が鳴き声を添えている」(尾形・森田『蕪村全集(発句)』講談社 平成4)という解釈になった。『蕪村全句集』(平成12)にも「山奥の桜を見に来た人に、花だけでは寂しかろうと、お愛想に美しい鳴き声を聞かせてくれる意」とあって、その基本的な理解は講談社『蕪村全集』に同じです。【解1】
しかし、句意を〈世間にむけて、つまり人間にむけて鶯が啼いている〉という控えめな解にとどめるべきか、あるいは〈人へのお愛想で鶯が啼いている〉とまで踏み込んで解説すべきかどうかは、にわかには決められない。それは注釈者の思い入れで微妙に異なる範囲だからです。個人的には「お愛想に」と副詞句的に解釈するのを好みませんが、かといって両者には二説と見るほどの違いはないのではないでしょうか。
拙解を示せば、〈山に桜を楽しみに来た客に、ときおり鶯が啼いてくれることだ〉ほどの句意になります。人がいて、鶯の声も聞こえるこの境界は、むろん世間と呼ばれる市街地ではありませんが、ことさら山深くでもありません。鶯と人間との折り合いがついている中間的な空間がふさわしい。【解2】
管見による限り、新注でヒトアヒと読んだ最初の人は木村架空の『蕪村夢物語 春の部』(375頁)と思われます。鳴雪・鼠骨・碧梧桐・虚子等の『蕪村遺稿講義』が人間に向かって啼くとする【解3】のに対して、架空は〈雨間(あまあひ)幕間(まくあひ)などの如く、人の途切れた間を云ふのだ〉と書きます。人が途絶えたから安心して啼いたというのですから、人に親和しない鶯ということになり、通解とは正反対の解釈と言ってよいようです。【解4】
朔太郎は『郷愁の詩人与謝蕪村』において、「行人の絶間絶間に鶯が鳴く」とする「ひとあひ」説を修辞上は穏当と認めながらもニンゲン説を支持し、この「言葉の奇警で力強い表現」に一句の生命を発見し、「人跡全く絶えた山中」で、ニンゲンに驚いた鶯の鳴き声が、「四辺の静寂を破っている」と鑑賞しています。【解5】
ヒトカンと読む説もあります。草田男『蕪村集』からの孫引きですが、志田義秀は用例をあげて、「間」は「閑」に同じという見解から、ヒトカンにと読ませて「人が閑にある」意としています。気ぜわしく鳴く鶯との対照だというのでしょう。【解6】
草田男はこれを支持し、ニンゲンと読むと「思わせぶりないやみが生じ、しかも全体の意味が不鮮明に」と言い、「この時代の日本の詩歌に」人間(ニンゲン)などという言葉が生で用いられたかどうかははなはだ疑問と書いています。
また、ヒトアヒ説に対しては、「桜が咲いている山道を人が通りかかるたびに鶯が鳴き声をやめる、しかし、人が去ってしまうとすぐにまた鳴く」という意味で、一応筋が通るが、「山道をそうしばしば人が通るのもおかしいし、路傍のくさむらにただ一羽の鶯が潜んでいるわけでもないのに足音の度ごとに鶯がやむのはおかしい」と批判しています。
ヒトアヒに「人づきあい。人に対する愛想」という意味があることを、架空・草田男を含めて明治以後の評者すべてが承知していなかったようです。
しかし、蕪村句の「人間」をヒトアヒと読み、「人づきあい。人に対する愛想」という意を強く打ち出すことに、わたしは強いためらいを持っています。
【附記】 『蕪村事典』(桜楓社)で村松友次先生は示したこの句の注解一覧は、鳴雪他『蕪村遺稿講義』・鼠骨『続蕪村俳句評釈』・架空『蕪村夢物語』・蕗台『続蕪村物語 春』(この書『蕪村夢物語』の名でも流通か)・朔太郎『郷愁の詩人与謝蕪村』・草田男『蕪村集』・健吉編/草田男訳『古典名句集「蕪村名句集」』(日本国民文学全集14/河出新社)・潁原他『与謝蕪村集』(朝日古典全書)です。