子規と桑原武夫
2012年 05月 14日
海紅の要約によれば、内容は以下の通り。
1,明治は欧化主義と国民主義とのせめぎ合う政治の時代だった。
2,子規が政治家として野心を持って十代を送ったことは、漱石・碧梧桐・虚子・漱石らの証言で明白である。
3,子規の主張は陸羯南らの国民主義を背景に置いて吟味しなければ誤る。
4,ベンジャミン・フランクリンの近代合理主義に基づく子規の仕事は、おのずから日本文化の閉鎖性や封建性批判へと向かった。和歌俳諧革新というエネルギーの根源がそこにある。
5,太平洋戦争敗戦。桑原武夫「第二芸術」は子規の苦悩とアナロジーであるが、これによって深く傷ついた日本人もまた子規・武夫同様の苦悩の持ち主であった。
6,「第二芸術」の反響の大きさに驚いた最大の人物は著者桑原自身。よって彼の思想をとらえるためには、「第二芸術」以後の桑原自身の深化を把握しなければ誤るだろう。
7,子規の生涯は長くなかった。それは、桑原における「第二芸術」以後が、子規にはなかったことを意味する。子規にとって、それが幸福であったか、不幸であったかは難問。
8,残る問題は、子規・虚子・碧梧桐の総合的な吟味、留学がもたらした漱石の思想の変質、柳田国男の日本文化史観、虚子のもとを離れて俳句に西欧並みの詩を盛り込もうとした俳人たち、山本健吉の「純粋俳句」論、そしてなにより国力と文化力との間に横たわる力学の検討を通して解決がはかられる可能性が高い。
高く咲く泰山木の花は好き 淀川梨花女