平林寺吟行―心を満たすということ
2012年 07月 02日
五百円の拝観料を納めると、「平林廿三世 放牛窟圓應」師家の筆による禅語の短冊と、ABCの拝観コースを示した色刷りのリーフレットを渡された。短冊のオモテには「平常心是道」の五文字、ウラには「びょうじょうしんこれだう」と読むその禅語を次のように解説していた。
「平常心是道」 南泉禅師(中国の名僧・七四八~八三四)の言葉。平常心は一般に平穏な少しも外物に動じない落ちついた心のことと解釈されていますが、禅宗では日常ありのままの心、すなわち、惜しい・欲しい・憎い・かわいい等の煩悩そのままが平常心であり、それに徹して生活してゆくことが道であり、禅の神髄であると教えております。
ボクはすぐに「喪に居る者は悲しみをあるじとし、酒を飲む者は楽しみをあるじとす。さびしさなくば憂からましと西上人の詠みはべるは、さびしさをあるじなるべし」(『嵯峨日記』二十二日)を思い出した。
Cコースをゆくという仲間に、遅れずに散策するつもりが、娘からのE-mailに対応している間に取り残されてしまい、そのドサクサにリーフレットも紛失。やむなく山門の扁額「凌霄閣」の意味を考え、「六六山人石凹書」とある揮毫者が石川丈山と知って、総門に戻り、扁額「金鳳山」の揮毫者「凹凸窠石丈山書」を確かめる。六六山人も凹凸窠も丈山の別号である。だがその字は感心しなかった。
山門の左の経蔵をひとめぐりし、「桂林荘」とある石碑を読む。最後の高崎藩主で文雅に秀でていた大河内輝聲の屋敷の名である。屋敷は浅草今戸にあったというから、それを移したのかもしれないが、なんの説明もない。それもまたよし。ところどころにあるCコースの指示板にそって仲間を追いかける。しかし懐旧の念になかなか足がすすまない。
句会はマルイファミリー志木というショッピングモールの8F。会議室のような立派な会場であった。冒頭になにかしゃべることになって、思いつきで感謝の気持ちを述べた。すなわち、「このごろ、よい俳句ができるかどうかは二の次でよい気がしている。俳句以前に自分の心を満たすことが大切だと思う。今日でいえば、吟行というかたちで仲間に再会できたこと、平林寺を訪ねたこと、こうした時間と出逢いを堪能することが、俳句以前として大切な気がする。おかげで私の心は満たされた。幹事さんを中心に、こうした時間を与えてくれたすべてに感謝」という主旨を述べた。
こころみに息を吸へとぞ寺涼し
緑蔭や碑文桂林荘とのみ
竹落葉土竜住みよき寺格かな