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生涯という一つの大きな作品◆芭蕉と蕪村

 今朝、山下一海先生の『見付けぬ花―知られざる芭蕉の佳句』(平9.7 小沢書店)を読んでいたら、『荊口句帳』にある「越の中山/中山や越路も月はまた命」 (55頁)を解説して、芭蕉句の「命」は「西行と現在をつなぎ、若年の芭蕉と今の芭蕉を貫いている。芭蕉の一句は、常に芭蕉の生涯という一つの大きな作品の一部分なのである」と結んでいた。

 このことにまったく異議はないが、もう少し丁寧にいえば、次のようになるだろう。

 誰のどんな句であっても、それは作者の生涯という一つの大きな作品の一部なのであるが、芭蕉の場合は、他の作者にくらべて、きわめて強固なつながりをもっている。

 かつて、拙稿「蕪村の発句―その魅力と限界」(『国文学 解釈と鑑賞―特集・与謝蕪村 その画・俳二道の世界』平13.2)を「芭蕉には編年体の句集が似合い、蕪村には類題の句集がふさわしい。それは芭蕉の人生の変化がそのまま作風の変化と重なるとうに見えるのに対して、蕪村の作風が生活の変化で大きく異なることはなかったからである」と書き出したことがあるが、これも同じ主旨を述べたつもりである。芭蕉は生涯と作品が露骨につながることで心の安寧を得たが、蕪村はそうしたつながりを断ち切ることで平安を獲得した。両者はそうした意味で、正反対のこころねの持ち主である。

 
by bashomeeting | 2012-09-23 11:52 | Comments(0)

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