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教材◆閉關之説大意

 情欲は『論語』や仏教の戒めるところだが、なかなか戒めのとおりにはいかない。それで恋の世界にはあわれ深いことが多いのだろう。人目をさけて夜の山に入り、梅香につつまれ、契りを結んでは恋のとりこになる。その忍び逢いを引き止めるものがないと、どんなあやまちを犯すかわからない。遊女との恋におぼれて、家を売り、命を落とす場合も多い。

 しかし、年老いてなお長生きを望み、物欲にとらわれて、ものの情趣がわからなくなる場合と比較すると、恋路の方が罪はずっと軽く、許されてよいと思う。「人生七十古来稀なり」(杜甫「曲江詩」)というが、その歳まで生きるにしても、心身ともに充実しているのは、わずか二十年ほどだろう。初老とされる四十歳は一夜の夢のように、あっという間に来てしまう。そして、五十六十と年を取って見苦しく衰え、夜は早くに床に入り、朝は早くから目を覚ます、そうした老いの寝覚めの日々を送りながら、このうえ何が欲しいというのか。

 愚かな者ほど欲が深い。つまり、人が一芸に秀でてみえるのは貪欲が昂じた姿であり、利害得失の念を強めた結果といってよい。その一芸を生活の手段にして、しかし生かしきれないとなると、物欲にまみれた世の中を奔走したあげく、田圃の溝にはまっておぼれ死んでしまうのが落ちであろう。

 では老いの楽しみとは何か。それは荘子の言うように、利害を捨て、年齢を忘れ、心静かに身を処することであろう。人が来ると無用なおしゃべりをするし、こちらから出向いて、人の家業の邪魔になるのもいやだ。とすれば中国の孫敬のように、また杜五郎のように、門を閉めて一歩も外に出ないのが一番である。閑寂を友とし、貧しさを心の豊かさとして、五十歳の頑固一徹な男みずからこれを書き留め、自らの戒めとする。

  昼間にすぼむ朝顔のように、私も門の錠前を下ろして閑寂を楽しむことだ。
by bashomeeting | 2013-03-10 12:55 | Comments(0)

芭蕉会議の谷地海紅(本名は快一)のブログです。但し思索のみちすじを求めるために書き綴られるものであり、必ずしも事実の記録や公表を目的としたものではありません。


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