諧謔の真意(1)◆免疫力と俳句
2013年 05月 04日
ふと、詩歌にも似たようなことがあると思った。どんなに深刻な主題を扱っていても、免疫力の弱っているときにできた作品は重くれて、読者の共鳴を得がたい。ボクは著名な句を時折「イヤな句」と評して、仲間から顰蹙を買うけれど、そうした句を詠むときの作者は、心の免疫力が弱っているのではなかろうか。例えば、教科書に取り上げられるような名句でも、次のようなものは免疫力が弱いときの作物に思える。ボクに言わせると「イヤな句」で、教科書に取り上げようという見識が理解できない。
冬蜂の死にどころなく歩きけり 村上鬼城
白露や死んでゆく日も帯締めて 三橋鷹女
霜の墓抱き起こされしとき見たり 石田波郷
どの句も人生の重大な事柄を詠んでいるのだろうが、それを俳句という不十分な詩型に盛り込もうとすれば、この三句のように独り善がりで、思わせぶりになってしまう。こうした重々しさは、俳句が近代文学の範疇に取り込まれてもてはやされた痛々しい努力であって、古典俳句にはないように思う。つまり、近代文学が諧謔という古典俳句の諦観を軽んじた結果なのだ。この近代と格闘できるのは小説・戯曲・随筆や評論なのであって、詩歌ではない。詩歌には詩歌の、つまり俳句には俳句の面目があり、一分があるだろう。