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mini lLecture◆蕪村の時代、すでに連句の座は壊れていたか。

◆問い:蕪村の時代、すでに連句の座は壊れていたか。
1)連歌俳諧には理非を裁断する人が必要である。それは宗匠である場合とそうでない場合とがあるが、その判断が作品の展開を左右する以上、一巻は捌き手の作品であるといえる。だが捌かれる付句(候補作)は連衆(他者)から提出されることから、芭蕉は〈連句は相手次第の文芸である〉という主旨のことを述べている(元禄五・五・七付、去来宛)。つまり捌き手の作品とは付句作者との合作という意味でもあった。厳密に言えば、芭蕉が捌いた付合(長句短句の組み合わせ)だけが蕉風といってよい。このレベルの連句の座は以後生まれず、壊れていたと言ってよい。

2)文学史は、蕪村の時代を仮に中興俳諧期と名付けている。この名称は芭蕉没後の俳諧が衰えていたことを前提にするものである。芭蕉俳諧の根幹は連句(付合・俳諧の連歌)であるから、蕪村の時代の連句の座もすでに壊れていたという史観は正しい。連句の大衆化は進んでいたから、たしなむ人はむしろ増えていくが、蕉風のレベルに並ぶものはなかった。捌き手のもとに連衆が集まれば座が生まれる、その意味では蕪村の時代にも連句の座はあったが、そのレベルを中興と評価できるかどうかはあやしい。連句芸術の名に価するものは芭蕉一代限りだったと判決されないように、蕪村の時代の研究者の研鑚が求められる。

3)蕪村は明和三年(一七六六)に三菓社句会を結成。だがこれは画家としても蕪村を支えてくれる富裕層を含む、同好の知己による集まりで、兼題発句の学習会。よって連句に精通する俳人は少数。

4)明和七年(一七七〇)から八年にかけて、蕪村は先師宋阿(巴人)の夜半亭を継承し、俳壇交流が盛んになるが、一門としての連句興行に見るべきものは多くない。というか、連句に力を入れているように見えない。

5)安永八年(一七七九)、几董を育てることを目的にしたと思われる檀林会という連句修練の会を作るが、その記録『連句会草稿』には「花見たく」二十五句(安八・四)、「野の池や」二十三句(安八・五)などが残るだけで、すぐ発句会に戻ってしまう。蕪村の膝元にすぐれた連句の座は成立しなかったとみる。

6)付けたりととして記憶に留めておいてほしいが、「選は創作なり」(『汀女句集』虚子序)という有名な言葉に続いて、次のようにある。

今日の汀女といふものを作り上げたのは、あなたの作句の力と私の選の力が合待つて出来たものと思ひます。あなたには限りません、今日の其人を作り上げたのは、其人の力と選の力とが相倚(よ)つてゐるのであります。

 この見識は連句の捌きに通うものがある。自分を発見してくれる、すぐれた選者に逢えなければ、俳句など作っている意味はない。
by bashomeeting | 2013-05-11 05:55 | Comments(0)

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