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終戦の日は長岡で迎えた◆『おくのほそ道』スクーリングⅠ

  霊あらば親か妻子のもとに帰る靖国などにゐる筈はなし 市村 宏(『東遊』)

1.【長岡にした理由】今年の地方スクーリングは、昨年まで象潟・酒田・村上と辿ってきた順序でいえば出雲崎であったが、季節や受け容れ施設の点で難しいという地元の先生の忠告を尊重して、長岡に変更した。八月十六日(金)から十八日(日)という日程だから、もっともな忠告だと思った。

2.【トランヴェール】終戦日の十五日は前泊で長岡へ。とき331で大宮(15:58)を発ち、長岡(17:12)着。『トランヴェール』は「いま、岩手の海は」を特集。洋野町の種市港(ホヤとウニ)、南部潜りのきっかけは明治31年(1898)の貨物船座礁であったこと、種市高校に海洋開発科受け継がれて今に至ること、洋野町の南隣が久慈市で、古くから海女の伝統があることなどを知った。

3.【種市先生の思い出】その連想で中学生のときの数学担当に種市という先生がいたことを思い出す。ボクの数学の答案をみて、「答えは正解でも、解法のプロセスに誤りがあるのでマルをやれない」と告げられた記憶。「お前のように、ソロバンができるヤツの数学は伸びない」と言われた心の傷があって、忘れがたい先生のひとり。

4.【前泊】予約のニューオータニ長岡(Room number511)はほとんど駅前で至便。チェックインを済ませて夕食のために1階の暖簾をくぐると、先客に受講生のYさん。清酒「八海山」で歓談。

5.【誤った情報】初日。ホテルの裏口を出て福島江用水を越え、会場の長岡市青少年文化センター(今朝白1丁目)へ。職場作成の資料にある「5階、502会議室」は誤りで、建物はプラネタリウムのある3階が最上階。教室は2階の集会室だった。炎天下を来た受講者で教室はいっぱいになった。

6【おもかげとしての西行】.講義内容は、まず『おくのほそ道』の登場人物一覧に、西行の名が二度しか出てこないにもかかわらず、「おもかげ」というかたちで、いかに多くの西行が垣間見られるかを講じた。芭蕉が求めた自画像を考えるためのヒントである。

7.【『おくのほそ道』の構造と連句 附懇親会】二日目。暑さのために体調を崩した受講生一名がリタイア。この季節の開講を再考すべきだと反省。連句(俳諧の連歌)に関する概説のあと、芭蕉が直江津で巻いた「文月や」二十句(曽良俳諧書留)の解釈と鑑賞を終え、二十一句目以降を継ごうという提案をした。芭蕉の人生や『おくのほそ道』という作品に、連句という文芸が与えた影響を考えてもらうのが目的である。ただし、時間が十分にはないので、五句を継いで終了(作品は別掲)。最後に「長岡スクーリングでわかったこと」をテーマに要約文を作成してもらった。終了後は、若手の受講者(女性二名)に幹事をお願いして、例年通り懇親を目的に会食した。場所はへぎ蕎麦の長岡小嶋屋(殿町2)。卒業生を含む飛び入り参加で総勢二十九名。

8.【『おくのほそ道』と「銀河ノ序」 附良寛を偲ぶ】三日目。越後交通バスで出雲崎へ。俳文「銀河ノ序」と『おくのほそ道』越後路を比較して、『おくのほそ道』の構造を考えることが目的。良寛記念館見学を経て、歩いて海岸の街道沿いに下る。良寛堂(大正十一年九月建立)見学。暑さのため、石塔(良寛持仏石地蔵をはめこむ)や歌碑「いにしへにかはらぬものはありそみとむかひにみゆる佐渡のしまなり」の説明もそこそこに、第一目的である芭蕉園の「銀河ノ序」碑へ。暑さで更なる脱落者が出ることを恐れて、芭蕉一泊という大崎屋跡、光照寺(良寛剃髪の寺)、妙福寺(「俳諧伝灯塚」がある)などの案内は中止。どうにか昼食を済ませて解散した。なお、出雲崎観光物産センター・天領出雲崎時代館は「道の駅」に指定されていた。飛び入り参加の二名と長岡で別れ、青少年センターに挨拶に出向き、とき368(長岡18:31)に乗って、大宮帰着(19:42)。

▶▶▶良寛堂は大正十一年(一九二二)に、佐藤吉太郎(虚子に学んで、俳号耐雪)の尽力によって建設。設計は安田靫彦。良寛の持仏(枕地蔵)をはめこむ石塔を安置し、「いにしへに」の歌を刻む。
by bashomeeting | 2013-09-04 10:40 | Comments(0)

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