Mini-lecture◆「むめがかに」歌仙の恋を例に
2014年 07月 07日
恋の句の事は古式を用ひず。其故は嫁・むすめ抔、野郎・傾城の文字、名目にて恋といはず、只当句の心に恋あらば、文字にかゝはらず恋を附くべし。此故に他門より、恋を一句にて捨るといへるよし、恋は風雅の花実なれば、二句より五句に到る、といへ共、先は陰陽の道理を定たるなり。是は我家の発明にして、他門にむかひて穿鑿すべからず。
これは『二十五条』の恋の記事の全文。試みに咀嚼して、現代語訳を施してみると次のようである。
→蕉門では、恋の句は「恋の詞を用いる」という古式を採用しない。つまり文字や名称で恋かどうかを判断しないのだ。では何によるか。前句に恋慕の心があるかどうかによる。その心が読み取れれば、恋の詞の有無に関わりなく恋の句を続ける。こういうことをするものだから、他門では「蕉門は恋を一句で捨てるようだが、恋は風雅の花実(表現と心情の両面で大切に扱ってきたもの)なので、二句から五句続けるのが正しい作法」と言い返すが、「恋は風雅の花実」とか「二句より五句に到る」という教えも、基本的に恋(陰陽)のあるべき筋道を定めたものである(恋慕の情がある場合に限った話である)。(但し)この(恋の句はその情の有無で判断し、一句で終わってもかまわないという)教えは蕉門の新しい考え方であるから、他門に対してとやかく言い立ててはいけない。
こうした拙訳の蓋然性を計るために、試みに「むめがかに」歌仙(『炭俵』)に取材して、恋の句の様子を探ると次の三例になる。
【例1】
6藪越はなすあきのさびしさ 野坡
7御頭へ菊もらはるゝめいわくさ 野坡
8娘を堅う人にあはせぬ 芭蕉
9奈良がよひおなじつらなる細基手 野坡
【例2】
25門しめてだまつてねたる面白さ 芭蕉
26ひらふた金で表がへする 野坡
27はつ午に女房のおやこ振舞て 芭蕉
28又このはるも済ぬ牢人 野坡
【例3】
34未進の高のはてぬ算用 芭蕉
35隣へも知らせず嫁をつれて来て 野坡
36屏風の陰にみゆるくはし盆 芭蕉
まず古式とされる「恋の詞」の視点で言えば、8の「娘」、27「女房」、35「嫁」がそれに該当。この三例のうち、次句で恋を展開させる例は36(挙句)だけ。しかし、それは露骨な恋でなく、句意(前句と結んだ二句)によっていて、(挙句だから当然であるが)展開というより恋の場面を収束するものになっている。また、句意を吟味すると、8「前句の哀惜を箱入り娘の上に移した恋の始まり」、35「前句の貧乏を長屋の独身男の上に移した内々の婚礼」の二例には恋心が顕著だが、27「初午の祭礼(稲荷社)に女房の親戚を招いて振る舞う」趣向は、前句の「拾ったお金」に負っていて、強引に恋の情を読むべきでないことがわかる。とすれば、先掲『二十五条』の拙訳もまずまず及第点か。