Review◆俳句という器を考える
2014年 08月 04日
この句は公民館便りの俳句コーナーに掲載される予定だったが、公民館の判断で削除された、つまり不掲載という措置がとられたという。「新聞紙上でご存じと思いますが」と言って、戦後世代という意味では同世代のzumiさんが、こんなニュースを教えてくれた。
新聞によると、話題の公民館はさいたま市三橋公民館(大宮区)で、削除した理由は「句の内容が公民館の考えであるかのように誤解されては困る」というもののようである。いまこの国を動揺させている集団的自衛権問題に過剰反応したのだろうが、公民館は市民の学習を奨励し、言論の自由を保障する場所だから、これは暴挙以外のなにものでもない。社会教育法に照らしても、この公民館の見識は悲しいほどに低く、結果としてきわめて大きな問題を露呈してしまった。案の定、この公民館の対応を憂慮する100人を超える集会がもたれたと聞く。それもまたきわめて自然で健全なことと言ってよい。
そのことを認めた上で、俳句という器は、こうした「考え」を盛りつけるには不十分な詩型であることを確認しておきたい。これは俳句を指導する立場にある人が、常に心得ておかねばならない常識である。近代俳句史に新興俳句弾圧事件のような哀しみがあったことを忘れてはならない。この事件は言論の弾圧という問題以前に、作者も権力者も、俳句という器のなんたるかを知らなかったという、無知による悲劇である。
俳句は、政治的な主張と読み取れる表現はむろんのこと、交通安全の標語にさえ向かない調べである。俳句は「考え」を述べるには不十分な詩型であること、ものごとを諦め、そぎ落とした上ではじめて輝く詩型であることを忘れないようにしたい。自己主張が目的なら、俳句よりもっと、モット、Mottoふさわしい方法があるではないか。芭蕉・蕪村・一茶なら、そのように言うであろう。俳句とは、「世俗」をぬけ出て「いのち」をよろこぶための器なのである。
俳句には、不十分なところがあるのですね。今まで全く考えたことがなかったです。
そういえば飯島耕一氏の「定型論争」で、その類の批評があったような気がします。
しかし、対象によっては不十分とは…勉強になりました。