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見し秋を何に残さん2◆「秋の暮れ」の文学史

「秋の暮」は「秋の夕暮れ」の文学史である。それを決定づけたものの一つ『枕草子』は〈秋は夕暮れがもっとも秋らしい。夕日が山の端にかかるころに烏が数羽ずつ寝床に急ぐ姿が見える景色、日本に渡ってきた雁の列が小さく見える景色など。そして日が落ちて何も見えなくなり、風や虫の音が耳につくころには、先ほどの夕暮れの景色がしっかり脳裏に刻まれる〉(拙訳)とある。この秋の夕暮れはやはり〈美しくも淋しい〉景色だろう。

 一方和歌では〈美しくも淋しい〉の〈淋しい〉世界が強調され、たとえば「さびしさに宿を立ち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮れ」(良暹・後拾遺・秋)はひとりぽっちである(仏道修行の)淋しさと、景色の淋しさの二つを同一視。「さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮れ」(寂蓮・新古今 ・秋)は常緑樹の槙の山を見ても癒やされない、つまり色(景色)ではなく境地(心境)としての淋しさ。「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」(西行・新古今・秋)は鴫が音を立てて沢を飛び立つさまから、出家者にもあるしみじみする心の表明。「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」(定家・新古今・秋)は苫葺きの小屋が点在するだけの海辺の景色から、この賞美するもののない世界こそ秋の夕暮れという展開を見せる。こうして「秋の夕暮れ」は古びて閑寂な味わい、つまり「さび」の世界を描く時空となってゆく。

 ちなみに、「秋」の本意は「四季で一番素敵な季節→秋は過ぎ去るもの、悲しいもの→人生や恋の過ぎ去ることを惜しむもの→〈深まり〉の象徴」というふうに変化してゆく。それを例歌で示せば「春はただ花のひとへに咲くばかり物のあはれは秋ぞまされる(不知・拾遺・雑)→おほかたの秋来るからに我が身こそ悲しきものと思ひ知りぬれ(不知・古今・秋)→秋風の吹きと吹きぬる武蔵野のなべて草葉の色変はりけり(不知・古今・恋)→鳰の海や月の光の移ろへば波の花にも秋は見えけり(家隆・新古今・秋)」となろうか。
by bashomeeting | 2014-09-29 20:02 | Comments(0)

芭蕉会議、谷地海紅のブログです。但し思索のみちすじを求めるために書き綴られるものであり、必ずしも事実の記録や公表を目的としたものではありません。


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