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なにゆえに俳句を詠むのか◆心の師としての俳句

 鴨長明の『発心集』の序は「仏の教へ給へることあり。〈心の師とはなるとも、心を師とすることなかれ〉と」と始まります。新潮日本古典集成の校註(三木紀人)によれば、広く経論に説かれる心得のようですが、直接には源信(恵心僧都)の『往生要集』から学んだ戒めとされています。拙訳を示せば「自分がひそかに抱く感情や考えは、それを制御することが肝要なのであって、ゆめゆめそれ(自分の感情や考え)に支配されてはならない」となります。

 実は、わたしにとっての詩歌はこの一節にほぼ同じで、「わたしの感情や考えは愛しい存在ではあるが、畢竟わたしという人間(human being)の働きの一部であり、全体ではない。全体が一部に翻弄されることを、わたしは望まない」と自ら言い聞かせています。感情や考えを正直に表現できたと思っても、それを詩歌とはいわないということです。いや、果たしてどのような秤にかければ、自分の感情や考えに忠実だとわかるのだろう。そんな便利な道具があろうとも思えません。

 ところで、芭蕉は『荘子』を踏襲して、自分の身体を百骸九竅(多数の骨と九つの穴)と把握し、そこにひそむ「心」を仮に風羅坊と名付けます。命名の理由は、「わたしの心」という奴は羅(薄物、夏向きの着物)に似て、風が吹くと破れてしまいそうなほど弱々しいためだといいます。この「弱さ」が芭蕉を俳諧という文芸に走らせる。実はその「弱さ」によって、俳諧を投げ出そうとしたり、逆に仕事にしようと努力したり、仕官して社会的地位を求めようとしたり、仏道に帰依して悟りを得ようともしたが、ひとつもものにならず、結局、俳諧の世界だけが残ったようです。

 俳諧のどこにそんな価値があったのでしょうか。それは、天然自然を規範に、四季の移り変わりを「心の師」として、「心」を解放してゆくところであると思います。芭蕉は、それが和歌で西行が、連歌で宗祇が、絵画で雪舟が、茶道で利休が求めた世界に等しいと信じていたようです。この「心」の解放こそ、芭蕉がたどり着いた「軽み」であると、わたしは信じています。ポール・ヴァレリーは「羽毛のようにではなく、鳥のように軽くなければならない」(『文学論』)と書いています。総体、つまり生きた人間としての「軽み」という点では、仏道も芸道も文学も変わりないとはいえないでしょうか。
 「心」を天然自然にひらいて、昨日までの自分とは違う新しさを見出してゆく、俳諧表現をそのようなものとして見直していただくことを願っています。

▶▶▶教師だからといって、問われもしないのに答えるのは難しい事柄もある。これは最近、親しい友人から「結局、表現として、私には俳句は向いていないとつくづく感じています」という便りをもらって、これは穏やかではないと感じて、はらわたを絞って整理したものである。ここに示した芭蕉の俳諧観は主に『笈の小文』冒頭の一文に拠っている。また芭蕉が「風羅坊」という主役にこめたイメージは、「芭蕉野分して」詞書(天和1)、「乞食の翁」詞書(天和1)、「歌仙の讃」句文(天和期か)、「芭蕉を移す詞」(元禄5)などで深めることができる。ついでながら、草庵に植えてもらった芭蕉と向き合いながら、その破芭蕉(やればしよう、秋季)の姿を自分に重ね、「ただ、この(芭蕉の)陰に遊んで、その風雨に破れやすいところを愛するだけ」(芭蕉を移す詞)という世界観については『撰集抄』(巻6、12話)に先例が見えることを附記する。

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Commented by 金川茂 at 2017-06-30 20:00 x

谷地さま。こんにちは、お久しぶりです。
私も時に触れ俳句をつくりますが、「自分は俳句に向いていない。」という発言は同調します。
こうなると詩歌のなかの「こころ」とは何かを、もう一度問い直さないと、先に進めないのだろうとふと思いました。
ぼくは詩人なので詩を書くのに、心の問題を多く取り扱いますが、実際難しいです。
本当に「こころ」は邪魔ですと、言いたくなります。こういう境地に達していないから、だからでしょうか?。
正直、迷いますね。

貴重な意見、ご意見ありがとうございました。
by bashomeeting | 2017-05-03 09:47 | Comments(1)

芭蕉会議、谷地海紅のブログです。但し思索のみちすじを求めるために書き綴られるものであり、必ずしも事実の記録や公表を目的としたものではありません。


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