模擬講義◆『おくのほそ道』と仙台
2017年 09月 08日
土地柄を考慮して、タイトルは「『おくのほそ道』と仙台」。旅を日常として生きた松尾芭蕉の晩年。その最大の産物である創作『おくのほそ道』が何を描いた作品なのかを伝えよう。そのために、仙台という土地が、いかに大切な舞台であるかを話そうと思った。用意した配布資料は、『おくのほそ道』本文のほかに、「芭蕉の生涯における『おくのほそ道』の位置付け」「『おくのほそ道』の訪問地」「芭蕉の旅支度」「行脚の目的」であった。
しかし、手始めとして教科書などで『おくのほそ道』に出逢った経験を聞くと、八割ほどはほとんど反応がない。
そこで、まず世の中には都鄙(雅俗)という構図があること、つまり経済発展や文化生活において抽んでている中央と、そうではない地方とに分けられることを説いた。すなわち都鄙の都(ト)は京都で、鄙(ヒ)は直感的には鎌倉だが、時代が進み国が膨張するにつれて鄙の地域は拡大することを前置きした。
その上で本題に入り、この旅で芭蕉がめざした土地は、古くはその鄙(ヒ)の概念からも遠く、「みちのく(陸奥)」つまり「道の奥」と把握されていた未開の地であった。それで『おくのほそ道』というタイトルが付けられた。「奥の細道」の名が仙台と多賀城を結ぶ七北田川沿いの古道に残っていることが嬉しいと話す。
また、この未開の地は遠方ゆえに、都から見れば主情的(emotional)な世界でもあって、和歌に詠まれて歌枕伝統の一翼を担う。勅撰集を見れば〈東北の土地で〉、あるいは〈東北の土地を〉詠んだ歌がたくさんあることに気付くだろう。この古歌に詠まれた土地を歌枕という。仙台の章段でいえば宮城野・玉田・横野・つつじが岡・木の下などがそれであると説いた。
寛文九年(1669)以降、伊達藩は領地整備を目的に、歌枕の地を特定する事業を展開。「年比さだかならぬ名どころを考へ置き侍れば」(『おくのほそ道』宮城野)といって、芭蕉と曽良のガイドを務めた加右衛門(画工・俳人)はその事業に加わっていた人物である。この人物を芭蕉は「心ある者」「風流のしれもの」と高く評価している(『おくのほそ道』)。エモーショナルではあるが、和歌や伝説の世界で粗野な扱いを受けてきた陸奥に、このような風流佳人を発見し創造する、これが芭蕉行脚の目的であり『おくのほそ道』の世界であった。こんな話をした。
終日秋雨で、散策もままならない。仙台駅で末長海産の「ほや・牡蠣・帆立」を買って、電車を早めて帰途についた。
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