海紅山房日誌

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この人の一句◆鈴木砂紅句集『偐紫今様源氏』文學の森刊

 《わかった句》〉
ねこじゃらし誰か遊んでくれないか(青丹与志昭和手鑑)
枕木の昭和の傷のあたたかし(青丹与志昭和手鑑)
動かざることも戦い牛蛙(紅柄格子独吟句合)

 《わからなかった句抄》〉
冬瓜のごろ寝百年考える(青丹与志昭和手鑑)
良夜かな千夜一夜の第一夜(黒日傘婦女庭訓)
羽抜鳥風のたまごを産み落とす(紅柄格子独吟句合)
榠樝の温み生まれなかった赤ん坊(紅柄格子独吟句合)
平成太郎摺り足でゆく恵方道(金鯰AI艶聞)
桐の花手を振る母に顔がない(偐紫今様源氏)

▶▶鈴木砂紅句集『偐紫今様源氏』。河合凱夫、大坪重治、松井国央、松田ひろむ、安西篤らの指導を受ける。現代俳句協会会員。「あとがき」に「年代は関係なくテーマ別の五章立てとした」とあり、目次に「青丹与志昭和手鑑」「黒日傘婦女庭訓」「紅柄格子独吟句合」「金鯰AI艶聞」「偐紫今様源氏」という章題を掲げる。文學の森、平成29年6月刊。

 自分史のように成立順に並べる句集の多い昨今の傾向に反して、本書は、目次を見るだけで、いかにも趣向豊かな編集意図を持つことが想像できる。すなわち、「青丹与志昭和手鑑」はアオニヨシショウワノテカガミと読んで「平成から昭和を照射した作品群」、「黒日傘婦女庭訓」はクロヒガサオンナテイキンと読んで「自分も含め「おんな」を見据えた作品」、「紅柄格子独吟句合」はベニガラゴウシヒトリクアワセと読んで「文字通り二句ずつの句合」と説く。判詞のない一種の自句合(ジクアワセ)だ。「金鯰AI艶聞」はキンナマズジンコウチノウコイバナシと読んで「平成から未来へのイメージを構成」、「偐紫今様源氏」はニセムラサキイマヨウゲンジと読んで「『源氏物語』を下敷きにした作品だが、題詠というより物語の中を歩きながら作った「吟行句」として読んで頂きたい」とあり、「千年の昔の世界をいろ・かたち・におい・おとを捉えながら、それを現代の風景としてどれだけ書けるかという自分なりの挑戦」であるという。「現実から遊離した俳句への批判ももちろん覚悟している」と書いて、悪びれるところはない。

 また添え状に「正岡子規の『俳句』提唱から今日まで、俳句は様々に変容しながら江戸俳諧の面白さをどこかに置き忘れてきたのではないかと、私は思っています。それを俳句に何とか取り戻せないだろうかと念じつつこの句集を作りました」と意気軒昂。

「その試みは実現できたのか、まだ遠く及ばずなのか、その答えを知りたくて」、俳諧研究者にも進呈するとあって、研究室に届いていた理由も判明。にもかかわらず、読後に胃の腑に落ちたのは上記《わかった句》三句と限られて、申し訳ないこと限りなし。ボクも、源氏・平家をはじめ、方丈記も徒然も手当たり次第に古典を読み漁って40年。読書では他者にそれほどヒケヲトラナイはずなのだが。

 おわびに、以下に少し私的な文学史観を附記する。
 ボクは現代俳人が時々口にする、「古典俳諧と近代俳句の要因は別物である」という見解を支持しない。不勉強きわまりないとさえ思う。だから、境涯を言い立てて、作品を論じることをおろそかにする、子規以降の近代俳句史に疑義を呈し、糺そうとする意欲を斥けない。なぜなら、近世(江戸)という時代の俳諧自体が、和歌や連歌の伝統への反措定という側面を持っているから。
 しかしながら、近現代という時間はたかだか150年であるのに対して、近世は約270年に及ぶ。その俳諧の歴史は和歌や連歌を乗り越えてきた時間である。その立役者はやはり、どうしようもなく芭蕉であり、その成果は現代に持ってきても、その先端をゆくと思う。言い替えれば、明治以降の近代俳句史は、芭蕉の到達点に学ぼうとする謙虚さが欠けていたために、遠回りして、近世の俳諧史をもう一度繰り返しているようにさえ思う。
 だから、近代俳句史に挑戦しようとする強者は、伝統俳諧の継承者である子規とか虚子とかではなく、伝統俳諧の大成者である芭蕉を敵にまわして論じるべきだし、論じてほしいのである。

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by bashomeeting | 2017-09-17 20:14 | Comments(0)

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