ボクの俳句的生活◆鈴木砂紅句集『偐紫今様源氏』の読後感として
2017年 09月 17日
静かな雨音を縫って鉦叩が聞こえてくる。今年初めての鉦叩だと思うと嬉しい。「チンチンチンと鉦を叩くように鳴くが余韻のある音ではない」(『角川俳句大歳時記』)というが、大きな御世話である。余韻は人それぞれであって、誰かに決めてもらうものではないだろう。
この人の聞いて居りしは鉦叩 素十(『初雁』)
今夏は7月末から8月初めにかけて、3泊4日で敦賀に出掛けた。『おくのほそ道』の集中講義である。前泊に向けて米原で新幹線から北陸本線(琵琶湖線)に乗り換え、余呉駅を通過するころは夕闇であった。ボクは車窓の奥に見える余呉湖に目をこらして、次の句を反芻した。
鳥共も寝入つてゐるか余呉の海 路通(『猿蓑』)
芭蕉晩年の目標であった「軽み」の中に、「細み」という美学があって、芭蕉は路通のこの句をその例として説いている(『去来抄』修行)。ボクは芭蕉の言説が「夜の静寂に包まれる水鳥たちに作者の孤独が投影されていることを指摘している」(「俳諧の余情」、俳句教養講座2『俳句の詩学・美学』所収)と書いたが、同じことは次のような句にも指摘できると思っている。
行く秋や手をひろげたる栗のいが 芭蕉(『続猿蓑』)
此道や行く人なしに秋の暮 芭蕉(『笈日記』)
秋深き隣は何をする人ぞ 芭蕉(『笈日記』)
鉦叩きいて居りしが寝つきたる 海紅
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