2019年 04月 04日
姿情を求めて18◆「泥吐き」という姿勢と暮らし
すでにお話しさせていただいたことですが、私の教師生活は常磐線沿線の高校教師で始まりました。この地域には私の恩師村松紅花と信頼関係にある俳人がたくさん住んでいて、「紅花先生の指示である」といって、赴任後の私をあちこちの句会に誘ってくださいました。私の俳句は茨城県の俳人に育ててもらったといってよいのです。
そこで教わったことのひとつに「泥吐き」という言葉があります。鮒・鯉・鯰・鰌、そして貝類などを料理する際の下ごしらえの一種で、魚介類が体内にため込んだ泥や汚物を水中に排出させることを意味します。句作をこの泥吐きに喩えて、よい句はトコトン泥を吐いたあとで、ふうっと口をついて出てくるものだというのです。
ともすれば、泣いたり笑ったりする日常の感情の起伏を表現するものと、俳句を考えがちですが、そんなものは松尾芭蕉が否定した私意であって、そういうものを吐き出してしまって、ああ、もう言いたいことなど、残っていないという段階に入って、はじめて私情を離れた心底を言葉にできる。それが本物の俳句だ。季題を通して見る天然自然は、魚介類の泥吐きにおける水に等しいのだ。季題を学ばねばならない、あるがままの世界を凝視せねばなるまい。私は「泥吐き」をそんなふうに理解したのでした。そして、今もその気持ちに変わりはありません。
繰り返しておきます。事実を〈美しく〉切り取り、言い取って、今生きていることを喜びましょう。たしなみ句会発足二周年まことにおめでとうございます。日々の御仕合わせをお祈りしています。