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なぜ俳句を詠むのかⅡ◆模倣のすすめ

   序

 たしなみ俳句会の五周年記念句集をお祝いして、「模倣のすすめ」を主意とする一文を贈ります。
 虚子は素十について「句に光がある。これは人としての光であらう」(『初鴉』序)とほめました。この「光」は「美」や「味わい」と同義ですが、「人としての」と絞り込まれると、作者の人格という色合いを強めます。俳句とは人間性とか品性の表出だというのです。
 では、味わい深い俳句はどうすれば生まれるのか。すぐれた人柄はどうすれば育つのか。虚子は「その人とその技巧から来てゐるものと思ふ」(同序)と続けて、「人(作者の心)」と「技巧(作者の言葉)」は不可分という立場に立ちます。つまり、心(内面)を養えば美しい言葉が生まれ、言葉(外面)を整えれば心は慰められるというのでしょう。
 素十がこうした教えに従順であったことは「私はたゞ虚子先生の教ふるところのみに従つて句を作つてきた。工夫を凝らすといつても、それは如何にして写生に忠実になり得るかといふことだけ」(『初鴉』素十自序)という一文に明らかです。この「写生に忠実に」なることを「写実」といいます。素十の「工夫」とは自分の句が「あるがまま」かどうかを確認することだったようです。「あるがまま」を見極め、受け入れることができれば、それは高潔の名に値するでしょう。
 従順である素十は、「従つて私の句はすべて大なり小なり虚子先生の句の模倣である」(同自序)といって憚りません。具体的には、素十の「甘草の芽のとびとびの一ならび」という句は、虚子の「一つ根に離れ浮く葉や春の水」という句の「模倣」で、この「虚子先生の句がなかつたなれば、決して生れて来なかったらう」(同自序)というのです。
 どこが「模倣」なのでしょう。なにを真似たのでしょう。虚子は「一つ根に」という句を「其後の句作」(『ホトトギス』大正2・5)という文章で、「濠の水を眺めてをるうちに、(中略)向うの方とこちらの方と大分離れた所に小さい水草の葉が二つ浮いてゐるのが、よく見ると一つの根から出た長い長い二本の茎の尖にあるのであつた」とし、その別物に見えた二つの葉の根が一つであった驚きと喜びを詠んだ句であると自解しています。素十はこの虚子の心(内面)を真似たのです。
 素十句の「甘草(正しくは萱草)」は宿根草(多年草)です。冬に枯れたかに見えて、根は土中を這い、早春のあちこちに明るく小さな芽を出す。その宿命を「一つ根に離れ浮く葉」と同じように、いとしく感じとったのです。このように、素十の「模倣」とは虚子の句を通して、心(内面)を養うことでした。「模倣」という言葉に、新しい光を当てたいと思う、今日このごろであります。
                                      谷地海紅

▶▶これは日立の、たしなみ俳句会5周年記念作品集『たしなみ』(2020.3.31、私家版)に寄せた序文。前稿「人としての光」(「第11回 芭蕉会議の集い」の講演録)に接続する文章である。よって、ここに転載し、諸賢の御批判を仰ぐことにした。

by bashomeeting | 2020-06-02 17:03 | Comments(0)

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