なぜ俳句を詠むのかⅦ◆仮名序「見るもの聞くものにつけて、言ひ出だせるなり」
2020年 07月 05日
やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして、天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、たけき武士(もののふ)の心をもなぐさむるは歌なり。(下略)
▶▶『古今和歌集』「仮名序」冒頭の一節。〈乾坤の変と向き合えば、誰もが歌を詠む〉〈生あるものはすべて、見るもものや聞くものに託して歌にする〉という。誰もが知っている一節だが、「見るもの聞くもの」を〈漫然と見る、漫然と聞く〉レベルと思って、疑わない人が多い。そういう人たちの多くは〈実は見ていない、実は聞いていない〉人なので、自分の心にばかり拘泥して失敗している。31拍(モーラ)の短歌はいざ知らず、その約半分の俳句で自己に終始するのはきわめてむずかしいことだと思う。17拍という短さを武器に自己表現するための技巧は〈ことばを飾らない〉ということに尽きる。風流とか感傷に走ると、必ずことば数が増える。これを避けるために、俳句を〈省略の詩〉〈引き算の歌〉などという人もいる。