なぜ俳句を詠むのかⅩ◆『芭蕉会議の十年』序(転載)
2020年 08月 09日
――わかった。応援してるよ。
こう言って、M先生は万札を数枚、はだかでわたしの手に握らせた。
――ガンバッテください。
Kさんも同様に祝儀を差し出した。俳文芸研究会後の酒席で、芭蕉会議を立ち上げる決意を伝えた際の一コマである。この研究会はわたしを国文学研究者の端くれに育ててくれた学者の集まりで、代表のI先生亡きあとの月例会は、わたしの研究室でおこなわれていた。
――ボクも身のほどを知るべき年齢になった。来し方を振ると、行く末は学者でも俳人でもない、その中間の道をさぐるのが自分に正直であるように思う。俳句を暮らしの杖にしたい人、学習を人生の糧にしたい人々にまじって、なろうことなら彼等の役に立ちたいと思う。
お二人に申し上げたことは、おおむねこのようなことであった。仲間に古代史を研究するHさんがいて、御親戚の稲澤サダ子さんの句集『月日ある夢』(平成十四・二、文成印刷)をいただいたこともわたしの背中を押した。作者とは一面識もないが、青森県立女子師範を卒業した明治生まれの女性で、北海道で妻として母として、また教師として、生涯に五千句におよぶ俳句を詠んだ。卒寿を迎え、その子どもたちが三百数十句を厳選し、初の句集として母に贈ったのである。この世には美しい話があるものだと思った。
アカシヤの花の心を胸に挿し
野に座せば吾も切株とんぼ来る
腰紐の紅きをかくし木の葉髪
長く勤めた会社を辞し、カルチャー&エモーションをコンセプトに、カルテモという会社を立ち上げるといって、内藤邦雄氏が訪ねてきたのはこのころである。芭蕉会議が十年目を迎えると教えてくれたのは、彼のもとで芭蕉会議のサイトを一手に引き受けている向井容子さんである。この二人には感謝の言葉もない。
ものごとには潮時というものがある。これまで何ができて、これから何ができるのかは仲間と相談して決めることになるだろう。評価は他人がするものだから。(平成28年12月6日)