転載◆コロナウィルスという啓示 (芦別文芸48・2020.10)
2021年 08月 20日
いつの日にか解明される可能性は否定しないが、人間の智恵で計り知ることのできない領域は常にあるのだろう。それを神という威力が担ってきた。啓示とか黙示とかいうカタチで人間に忠告してきた。このところ、その忠告がずいぶん多いのではなかろうか。科学の進歩や経済の繁栄は、結果的に大自然に対する畏怖の念を失わせ、野生動物との棲み分けはむずかしく、シベリアの永久凍土は溶け続け、海水温度の上昇による気候変動が世界各地の生活をおびやかしている。これらは、人間の智恵のなさを指弾する地球規模の警告、つまり啓示なのではなかろうか。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)なるものにも、その啓示(黙示)という名を与え得るのではなかろうか。「With コロナ」とか「Go To 〇〇」などというノンキな姿勢で乗り越えることのできる情況には、すでにないのではないか。
こんな柄にもないことを考える機会を与えてくれたのは、岩手県花巻市のA先生から届いた七月十一日付の手紙である。先生は宮沢賢治学会を主な舞台に、長く賢治顕彰の仕事を続けているが、農業高等学校の校長を最後に、父君のリンゴ農園を引き継がれた。すなわち、御苦労の自家製リンゴジュースを送って下さる荷物に、その手紙は添えられていた。
内容は「子どものころ、風邪や体調の悪いときには必ずこのリンゴジュースを飲まされた」という懐かしい話や、賢治の命日に献花や詩の朗読・合唱・野外劇などをおこなってきた「賢治祭り」が御多分に洩れず中止になったというニュースにはじまるが、それにまじって「時代が悲鳴をあげているように思う」と書いている。
A先生の心に悲鳴と映ったものは、ひとつには例年と異なる梅雨の激しさと、コロナウィルス感染症下で起こった「九州の豪雨と大洪水による家々の浸水」、次には香港で昨年三月から「逃亡犯条例改正案の完全撤回」や「普通選挙の実現」など、人間としてごくあたりまえの五つの要求を掲げて、継続的におこなわれている「香港一連の民主化デモ」、さらに「Black Lives Matter」、つまり「黒人の命を粗末に扱ってはならぬ」というアメリカの人種差別抗議運動。アフリカ系アメリカ人に加えられた警察の残虐行為への組織的な批判である。これらを先生は、いま地球という星があげている悲鳴だという。
こうした悲鳴は新型コロナウイルス感染症と同じく、世界をあげて向き合わねばならない問題であった。私ども戦後世代は、自分たちが生まれたころに発足した国連に期待するところが大きいが、この組織の表情はいびつで、なかなかその責任を果たせないでいる。組織がいびつなのは、構成する人間の思考が歪んでいるからだろう。
私たちは思想信条を侵されて生きてゆける動物ではない。言論の自由は精神の解放そのものであり、文化とか芸術とかを根底で支えるエネルギーである。だが、大国、小国を問わず、グローバリゼーションと内政不干渉を都合よく使い分けて、国家権力を行使する国々の露出は、誰かがいった「人は歴史に学ばない」という哀しみを思い起こさせる。それゆえに、人知で計りがたい側からの啓示や警告を見逃してはいけないと思うばかりである。
A先生は、高校生のころに見た映画『風と共に去りぬ』に驚いて、新潮社版の小説を何度も読み返した昔を懐かしんでいる。時代は南北戦争前後。南部に住む白人たちの絶頂期で、その貴族文化的な社会を優雅に描くが、白人の視線で描かれて人種差別(奴隷制度)の残酷さには触れていないという批判も受けてきた。ハティ・マクダニエルが黒人女優として助演女優賞を受賞していながら、授賞式会場が「黒人お断り」のホテルであったために、式場に席を設けられず、アフター・パーティーにも参加していない時代だったことを思い出しながら、先生は「読書でもしながら、新しい時代の方向と小さい自分に果たせる役割を模索したい」と結んでいる。