来簡◆普通の生活って何だろう
2021年 09月 18日
また私の幼いころの話。戦争で疎開した先は北海道の祖父母の家で、オホーツク海寄りの片田舎だった。近くに広場があって、傍の急坂の下を頓別川が流れていた。「頓」はアイヌ語で「いくつにも枝分かれして流れて行くこと」を意味すると、祖父から聞いた気がするが、今はおぼろげな記憶である。
遠い北海道も空襲や空襲警報と無縁ではなかった。家中のガラスは墨で黒塗りされて、朝に目が覚めてもお天気なのか、雨降りなのかわからない。いぶかしく思っていると空襲警報が鳴りだし、防空頭巾をかぶり、救急袋をぶらさげて防空壕に駆け込む。「空襲警報解除」とふれまわる消防団の声にノソノソと防空壕を出て家に帰る。
そのうち、家の横の広場に大人たちが集まり、急坂の下の川から広場まで、二列に並んで「防空演習」。水の入ったバケツや砂バケツリレー、それが終わると「竹槍訓練」。「ワタシモ、ヤリタイナ」なんて思いながら、毎日飽きずに見ていた。これが、何の疑問も持たずに過ごした、小さいころの普通の生活だった。他に穏やかな日々があるなど想像もしなかった。
戦後になって食料難の時代。「澱粉団子入りの麦ご飯のお粥」のこと。じゃがいもを潰して澱粉を入れて、それをこねて白玉団子ふうにしたもの。塩味だけの素朴なものだったが、大好物だった。
最近、母親の後始末に格闘中。父母の古い戸籍を江戸時代まで遡ったり、生まれてから亡くなるまでのあれこれ。母が独身で美しかったりして癒やされるが、戦争前後のゴタゴタなども多くて、結構面倒な作業である。自分の子供たちには、こんなことさせずに済むようにしたいと思いつつ、がんばっている。コロナの終わるのを待っていたが、先が見えないので動き出すことにしたのだ。

疎開経験を書かれた先生のご友人の一文を拝読して、空襲警報とか、疎開、すいとんと言った、戦前の言葉を、母の話を通して耳にしていたことを鮮明に思い出しています。焼夷弾が火の粉と共に、空から降ってくる中、姉を負ぶって逃げた話は、ショウイダンという言葉を私の記憶に焼き付けました。召集された父の里へ、幼い姉と母は、疎開したのでした。カボチャをたくさん食べて、姉は、掌が黄色くなったとよくきかされました。粉を団子状にこねて、野菜を入れ汁物にしたすいとんは、戦後しばらくたっても母が懐かしがって、時々作ったものでした。戦時下のいろんなこと、母からも、近衛隊にいて戦地には行かなかったけれど、父からも、もっと聞いておけばよかったと思うばかりです。文を読ませていただいて、親たちの思い出と重なり、私事を書かせて頂きました。