読む楽しみ◆ラジオからカーペンターズぼたん雪 由紀子
2022年 01月 31日
俳句を伴侶として暮らす方法はいくつもある。
市中の教養講座を受講したり、一定の主義主張をもつ俳句雑誌で選者の選を受けて入選を競ったり、そうした雑誌の変形である各種の俳誌に加わって自分の作品を掲載する枠を得たり、また新聞俳壇への投稿や懸賞俳句の応募に熱を上げたり、あまりほめられたことではないが、俳壇で名を成そうとしたりと、まことに多彩である。
しかし、そのいずれにも暮らしのカタチがなじまず、俳句に遊ぶことを断念している人もいる。それは気の毒だから、そうした事情の人たちのリズムに寄り添い、気のおけない俳句会を作ってお手伝いをしたりする。
最近、そうした俳句会のひとつで、兼題「ラジオ」に挑戦して、由紀子さんの「ラジオからカーペンターズぼたん雪」という句に遭遇。ボクは〈この兄妹のデュオは澄みきっていて、春の雪(ぼたん雪)という景にお似合いですね〉と感想を述べた。
するとFさんから〈読後すぐに脳裏を「Yesterday Once More」が流れた。ノスタルジックな歌詞とメロディにぼたん雪はおしゃれな組み合わせ〉という感想が寄せられた。それで久しぶりに、「When I was young I’d listen to the radio」と始まる「Yesterday Once More」を聴いた。こみ上げるものがあった。
ところで、「Yesterday Once More」をボクに和訳させると、「あの日に帰りたい」となる。「あの日に帰りたい」とくれば、「泣きながら、ちぎった写真を手のひらにつなげてみる」と始まる荒井由実の名曲で、ボクの母校の小学校が閉校する際の記念誌に求められて、同じ「あの日に帰りたい」という題で思い出を寄せた記憶がよみがえった(海紅山房日誌:2011年 02月 26日)。
「Yesterday Once More」の清澄と、荒井由実の「あの日に帰りたい」の演歌に等しい重たさ。小さな俳句会で出逢った一句で、こんなゆたかな数日を過ごすことができた。ボクが〈俳句は読者のものですよ〉いうのはこういうことである。
市中の教養講座を受講したり、一定の主義主張をもつ俳句雑誌で選者の選を受けて入選を競ったり、そうした雑誌の変形である各種の俳誌に加わって自分の作品を掲載する枠を得たり、また新聞俳壇への投稿や懸賞俳句の応募に熱を上げたり、あまりほめられたことではないが、俳壇で名を成そうとしたりと、まことに多彩である。
しかし、そのいずれにも暮らしのカタチがなじまず、俳句に遊ぶことを断念している人もいる。それは気の毒だから、そうした事情の人たちのリズムに寄り添い、気のおけない俳句会を作ってお手伝いをしたりする。
最近、そうした俳句会のひとつで、兼題「ラジオ」に挑戦して、由紀子さんの「ラジオからカーペンターズぼたん雪」という句に遭遇。ボクは〈この兄妹のデュオは澄みきっていて、春の雪(ぼたん雪)という景にお似合いですね〉と感想を述べた。
するとFさんから〈読後すぐに脳裏を「Yesterday Once More」が流れた。ノスタルジックな歌詞とメロディにぼたん雪はおしゃれな組み合わせ〉という感想が寄せられた。それで久しぶりに、「When I was young I’d listen to the radio」と始まる「Yesterday Once More」を聴いた。こみ上げるものがあった。
ところで、「Yesterday Once More」をボクに和訳させると、「あの日に帰りたい」となる。「あの日に帰りたい」とくれば、「泣きながら、ちぎった写真を手のひらにつなげてみる」と始まる荒井由実の名曲で、ボクの母校の小学校が閉校する際の記念誌に求められて、同じ「あの日に帰りたい」という題で思い出を寄せた記憶がよみがえった(海紅山房日誌:2011年 02月 26日)。
「Yesterday Once More」の清澄と、荒井由実の「あの日に帰りたい」の演歌に等しい重たさ。小さな俳句会で出逢った一句で、こんなゆたかな数日を過ごすことができた。ボクが〈俳句は読者のものですよ〉いうのはこういうことである。
by bashomeeting
| 2022-01-31 15:27
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