前書論の指針
2006年 08月 13日
八月五日の清澄庭園はよかった。江東区芭蕉記念館を会場に、仲間の句会があって出かけたのだが、立秋を目前に、夜は秋の気配を強めているのに、日中は閉口するほどの炎天で、常識では他出を憚かるところだろうが、そこは脱日常を本意とする吟行句会ゆえ、日盛りに抱かれる覚悟、その甲斐あって、つくばいに喉を潤す雀らに親しみ、鴉と緑蔭を分け合い、浴衣姿の乙女らにしみじみとした時をすごした。
この季節は亡き人を思い起こし、戦争の惨状を記憶し直す時間でもあって、句会では史実を主題とする佳句も少なくなかった。だが、歴史的な事柄を過不足なく十七音に詠いあげることは難しく、前書をつけることの是非が話題になった。俳句は五・七・五音で自立した一篇の詩でなければならぬ、という信仰が近代以降にあって、意見がわかれたのである。その際の議論をさらに深める機会がくることを期待して、昨夜一気に七枚ほどの原稿「前書論の指針」を書いて、通信教育部の機関誌に送った。句会の場で、問題提起してくれたKさんに感謝したい。