「切れ」をめぐって
2007年 05月 12日
芭蕉は〈発句は物を合はすれば出来〉(芭蕉・去来抄)すると言っている。取り合わせの論である。
山吹や蛙飛びこむ水の音
この上五〈山吹や〉は其角が芭蕉の句に提言した上五文字である。山吹と蛙の取り合わせとして、芭蕉のいう〈発句〉つまり詩になっている。それは、詩語としての山吹(上五)と蛙(中七・下五)が向き合わされて、そのはざまに読者が介入できる場所があるからである。だから、山吹と蛙が指示する文学伝統を誤解しない限り、山吹と蛙の両者にかかわって、どのような感慨を催すのも読者の自由である。そこに詩が生まれる。私はその立場をとらないが、山吹と蛙にまつわりつく言葉の伝統など、詩歌の理解に必要ないという気楽な人々もいるにちがいない。いずれにしても、この場合は上五と中七・下五、そして読者という三者によって詩が成立している。「切れ」とは、このように読者の介在を許す場所であり、取り合わせの句とは配合された二者と読者とのトライアングルで成立している。
正午をまわったゆえ、一旦ここで筆を置く。