続「切れ」をめぐって
2007年 06月 11日
古池や蛙飛びこむ水の音
芭蕉の意図は、蛙が飛びこむ水の音である。渓流では蛙の飛びこむ音は聞こえない。つまり其角の提言〈山吹〉は〈蛙飛びこむ水の音〉にふさわしくないのである。
飛びこむ音が聞こえるのは、水の流れのない湖沼や田圃以外には考えられないであろう。とすれば、想念にある蛙は河鹿に先駆けてあらわれるカエル一般のことである。清流の河鹿ではない。一句を〈古池〉とする必然がそこにある。こうして枯淡閑寂を破る春の息吹が創出されたのである。
ところで、其角趣向の〈山吹や〉の句は取り合わせ(配合・二句一章)だが、成案である〈古池や〉の句が一物仕立て(一句一章)であることにお気づきだろうか。韻律上は切れているが、蛙という題意の範囲内のものであることはおわかりだろうか。つまり、其角案から芭蕉成案への道筋は、取り合わせから〈金(こがね)を打ち延べたる〉句への頓悟・無作為への道のりだった。そのことは手近には『去来抄』「修行」の部や『旅寝論』を読めばわかることである。
〈切れていなければ俳句ではない〉〈切れていれば俳句である〉と考えがちな人が少なくないので、少し頭の中を整理してみた。これらは〈古池や〉の句をもって「芭蕉開眼」の句と沙汰する諸問題と無関係ではない。取り合わせの方法は容易だが安易。取り合わせは芭蕉の言説の半面でしかなく、無作為の境地というめざすべき地点があることを忘れてはならないように思う。