山の裾野に暮らす
2007年 06月 24日
昨年の東京新聞に次のような話が紹介されていた。
作家の夢枕貘さんがまだ二十代のころ、ある編集者から「流行作家の椅子はいくつあるかご存じですか」ときかれた。▼「知らない」と答えると「十五です。いつの時代も十五しかない。誰かが座れば誰かが落ちる。そのうちの一つに座ってみませんか」と持ちかけられた。「実は今、椅子が一つ空いているのです。ついしばらく前まで新田次郎という方が座っていた椅子です」という▼この話は、柴田錬三郎賞に輝いた夢枕さんの傑作山岳小説『神々の山嶺』(集英社文庫)の「あとがき」にあるのだが、すごい口説き文句があったものだ▼新田さんが亡くなられた直後の話で、夢枕さんはそれから十五年がかりで『神々の山嶺』を仕上げる。(下略) ―『東京新聞』「筆洗」(平十八・五・二)
山の頂上ともいうべきこうした場所は、流行作家の世界に限らず、どの分野にもあろう。俳壇の場合とて似たり寄ったりにちがいない。秋櫻子と素十がいまだに近代俳句史のカノン(正典・尺度)として取り沙汰されるのは、本人がそれを望んだかどうかは別にして、権威の椅子に坐っていたからである。だが、何をもって素十といい、秋櫻子というのかは覚束ない。私たち自身の近代を自覚するためにも、今日はその暗闇に少しばかり光をあてたい。
ところで、芭蕉会議に集う人々は山の頂上をめざす人々の集まりではない。山の裾野に暮らすことに少しも不満のない人たちの集まりである。われわれは、俳句という短詩型の伝統を持つ国に暮らしているものだから、誰でもふと秀句を残したりすることがある。それは偶然、あるいは奇跡といってよい事柄である。しかし、それでいっぱしの俳人になったような気になる人がいる。山の頂上に登る資格を得たかのような錯覚に陥る。それで古典を読まない。芭蕉会議はその道を嫌う。
なぜなら、わたくしの私らしさ、つまりOriginalityとは既成の言葉の海で浄化するという、矛盾という名の工程を経て、はじめて形状をなすことを知っているから。言葉は私物化できない。だから古典に学ぶ。