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山の裾野に暮らす

 六月十七日(日)に、「第2回 芭蕉会議の集い」がおこなわれて、「秋櫻子と素十に学ぶ」という座談会、森あづさ氏「俳句知らずが俳句漬けになった話」、安保博史氏「朔太郎と蕪村」という講演、そして懇親会を滞りなく済ませた。冒頭で、この会の原点を忘れぬよう、またこの日の話し合いの呼び水になることを期待して「山の裾野に暮らす」という話をした。以下は、その際に伝えたかったことの要約である。

  昨年の東京新聞に次のような話が紹介されていた。

  作家の夢枕貘さんがまだ二十代のころ、ある編集者から「流行作家の椅子はいくつあるかご存じですか」ときかれた。▼「知らない」と答えると「十五です。いつの時代も十五しかない。誰かが座れば誰かが落ちる。そのうちの一つに座ってみませんか」と持ちかけられた。「実は今、椅子が一つ空いているのです。ついしばらく前まで新田次郎という方が座っていた椅子です」という▼この話は、柴田錬三郎賞に輝いた夢枕さんの傑作山岳小説『神々の山嶺』(集英社文庫)の「あとがき」にあるのだが、すごい口説き文句があったものだ▼新田さんが亡くなられた直後の話で、夢枕さんはそれから十五年がかりで『神々の山嶺』を仕上げる。(下略) ―『東京新聞』「筆洗」(平十八・五・二)

  山の頂上ともいうべきこうした場所は、流行作家の世界に限らず、どの分野にもあろう。俳壇の場合とて似たり寄ったりにちがいない。秋櫻子と素十がいまだに近代俳句史のカノン(正典・尺度)として取り沙汰されるのは、本人がそれを望んだかどうかは別にして、権威の椅子に坐っていたからである。だが、何をもって素十といい、秋櫻子というのかは覚束ない。私たち自身の近代を自覚するためにも、今日はその暗闇に少しばかり光をあてたい。
  ところで、芭蕉会議に集う人々は山の頂上をめざす人々の集まりではない。山の裾野に暮らすことに少しも不満のない人たちの集まりである。われわれは、俳句という短詩型の伝統を持つ国に暮らしているものだから、誰でもふと秀句を残したりすることがある。それは偶然、あるいは奇跡といってよい事柄である。しかし、それでいっぱしの俳人になったような気になる人がいる。山の頂上に登る資格を得たかのような錯覚に陥る。それで古典を読まない。芭蕉会議はその道を嫌う。
  なぜなら、わたくしの私らしさ、つまりOriginalityとは既成の言葉の海で浄化するという、矛盾という名の工程を経て、はじめて形状をなすことを知っているから。言葉は私物化できない。だから古典に学ぶ。
by bashomeeting | 2007-06-24 15:52 | Comments(0)

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